2010年12月26日日曜日

まぁるい学校

以下、初中教育ニュース(初等中等教育局メールマガジン)第157号、2010.12.24より一部抜粋。

【お知らせ】国立教育政策研究所「海外の学校建築」講演会等のお知らせ〔国立教育政策研究所文教施設研究センター〕
 このたび、OECD/CELEが出版する学校施設好事例集第4版において、世界33か国から推薦された166プロジェクトの中から日本の学校施設である「ふじようちえん」が最も傑出した作品として選出され、その表彰式と記念講演会を開催することとなりましたのでお知らせします。
http://www.nier.go.jp/03_laboratory/houdou_pdf/houdou_221208.pdf

おもしろいかたちをしたようちえん。だえんけいで校舎をぐるぐるはしりまわれる。なんて素敵!

ふじようちえんHP
http://fujikids.jp/home/

2010年12月23日木曜日

続・研究の独創性

研究の独創性(2010年12月8日)に関して。

「思想課題を共有すること」と「それへのアプローチが独創的であること」を分けて考える方がいいかもしれない。(しかし、アプローチの独創性が思想課題としての「問い」の構成のしかたを変えるようなものであれば結局「アプローチの独創性」に行きつくのかもしれないが。)

思想課題については、数年前にある研究会に参加した際に指摘していただいた。研究課題が、現実的な課題設定(現実にある問題状況とそれに対する問題意識)と思想的な課題設定(理論上批判の対象となる論点)によって設定されると考えた場合、後者にあたるもの。

この2つの課題を研究課題として示すことをずっと考えているけれど、それを構造化して示すのは非常に難しい。その理由はいくつかあるだろうが、そのうちの一つとして多くの前提となる知識が必要とされる一方で、当初の問題関心を見失わずにいることが必要となるからである。知識を深めていけばいくほど、いろいろな研究者がいろいろなアプローチを提唱していることがわかってくる。前者の課題は共通するが、後者の課題は共通していない場合や、論じるレベルが異なっている場合など、いろいろな状況が考えられる。そして研究課題を読み解くのを難しくさせているのは、論文や文献の中にその課題が十分に明示されていない場合があるからである。

再び、自戒をこめて。

【大臣会見】PISA結果/学校組織

【大臣会見】
・鈴木寛文部科学副大臣記者会見録(平成22年12月9日)
http://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/1300063.htm

■PISA結果
文科省の取り組みの関連:
「文部科学省の〔読解力強化のプログラムや活動―引用者〕というよりも、それぞれの学校現場、あるいは地域を含めた、あるいは公民館、家庭、そうした子どもの学びの現場でですね、大勢の方が熱意を持って、そしてそういう工夫を持ってですね、子どもたちの成長発達に御尽力をいただいたと、そういうことだと思います。」

今後の課題:
「残された最大の課題というのはレベル1未満がですね、読解力で申し上げますと4.7パーセント、韓国はそこが1.1、フィンランドが1.7ですから、やっぱりここが最大の課題だと思います」
「加えまして、中身、内容でありますけれども、…読解力の中で『情報へのアクセス・取り出し』というところは最上位グループであったわけでありますが、『統合・解釈』、あるいは『熟考・評価』といった部分はですね、まだ伸びしろがあると。」

他国・地域への言及:
「20年前、30年前、40年前の日本〔高度成長期の中で学力を向上することがイコール経済的な幸せに直結する―引用者〕を回顧し、そこに戻ろうと言ったところで、これはあまり現実的な話ではございません、と思っています。したがって、あまりアジア諸国の中での順位をいちいち議論するということはあまり生産的ではないと。」
「むしろですね、成熟社会であるにもかかわらず非常に成果を上げているフィンランドカナダニュージーランドオーストラリアと、こうした成熟社会における学びの動機付け、それから成熟社会における、そして文化や価値が多元化、多様化する中でですね、しかしその中で学力、あるいは読解力、あるいは数学的、科学的リテラシーの重要性ということをしっかり位置付けてですね、そしてそこを取り組んでいると、こういうところはお互いに、それぞれの持っているノウハウや経験や知見を共有しながら、共にですね、成熟社会における学びの充実という点では大いにコラボレーションをしていきたいと思っております」
「韓国に大いに見習うべき点があるとすればですね、…レベル1未満が日本に比べて優位に低いと、4分の1ぐらいですから。」
「シンガポールや韓国は、明らかにパソコンの利用と学力との間に相関があります。」

■学校組織
校長の役割:
「学校自体がそういう毎日様々な営みが起こる、正に生き物であってですね、様々なことが、良いことも、心配なことも、懸念すべきことも、いろいろなことが起こるわけですね。そうした、非常にダイナミックな組織体である学校というものに対して、そういうことをよく分かって、そしてそれの中できちんとプロデュースができるということが、やっぱり新しい学校の校長、リーダーである校長には求められるということだと思います。」(強調―引用者)

教師集団のあり方:
「今まで断片的に、初任というか新卒のところだけが強調されたりして参りましたけども、…18歳から60歳までの全体ということと、それから一人のスーパーマンの教員を作るという発想を卒業して、これまでは望ましい教師像ということでですね、もう何でもできる教師像というのをイメージしてそれを作るんだということですが、そうじゃなくて、チームとしてですね、教員集団として、そしてそれをサポートする縁側の、そういうボランティアの皆さんや、あるいはそれを支える教職大学院のプロの皆さん、そういうことも含めてですけども、そういうチームとしての教員集団で、それぞれが得意なものを持ち寄りながらお互いいろいろ支え合い、かばい合いながらということで、18歳から60歳までの良い教員集団を作っていくんだと。」(強調―引用者)

これからの学校のイメージ:
「トップマネジメントの校長、プロデューサーとしての校長、そして専門としての中堅ですね。…様々な中堅専門集団がいて、そしてその人たちが若手にいろいろ伝授していくと。しかし、若手もそういう中で大事な、教員集団全体に活力を与える、あるいは学校全体に活力を与える大事な存在としてですね、自らも学びながら、しかし子どもたちに対しては、あるいは学校コミュニティとしては中核的な存在として頑張ると、こういう全体の、これから変わっていくべき学校のイメージ。」

2010年12月20日月曜日

研究者・大学の役割

立ち止まる人、歩き続ける人(2010年5月3日)、【備忘】研究者=知識人(2010年7月8日)、研究の独創性(2010年12月8日)に関連して。

中山元「解説――カントの思考のアクチュアリティ」『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』(光文社古典新訳文庫)中山元訳、光文社、2006年.

中山元さんがカントの思想について解説する中で、カントが「哲学者の使命」と考えていたことについて言及しています。研究者や大学の役割にも関連すると思うので、下記に引用します。

「啓蒙の原理にしたがって、学者が公的な理性を行使し、時代を改善し、人々に啓蒙の原理を守らせることは、哲学者の使命だと考えていたのである。/…哲学者は啓蒙の時代にあって、たんに哲学的な理論や体系を構築するのではなく、公的に発言することによって、人々を啓蒙するつとめがあるのである。/そのために必要とされるのが、公的な発言の権利であった。…/権力がもし他者に思想を伝達する権利を奪うならば、それは思考する者に、考える権利まで奪うことになるのである。啓蒙の原理とは『自分で考える』ということであるが、自分で考えるためにはまず、公的に意見を表明する場、みずから真理と考えるものを語る可能性が与えられている必要があるのである。」(pp.373-4.)

「哲学者はみずからの思考の原則を公表し、政治や法律について吟味を加えることで、それが公正なものかどうかを判断することができる。そのためには哲学者は発言の自由を、みずからの原則を公開し、その原則に基づいて判断した結果を公開する自由を、そして他者と『共同で考える』自由を必要とするのである。」(p.375)

コメント:
・この文章の「哲学者」は「研究者」に置き換えられると思います。そして現代において「自分で考える」ことは基本的にすべての人に求められており、その訓練のための主たる場所となっている(なるべきである?)のが大学という機関であると思います。
・「自分で考える」ことの難しさも同時に感じる今日この頃。

カント「永遠平和のために」

カント「永遠平和のために――哲学的な草案」(1795年)『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』(光文社古典新訳文庫)中山元訳、光文社、2006年、pp.147-273.
中山元「解説――カントの思考のアクチュアリティ」(pp.337-76.)※「永遠平和のために」に関連する箇所のみ

構成:
第1章 国家間に永遠の平和をもたらすための六項目の予備条項/第2章 国家間における永遠平和のための確定条項

内容:
<予備条項>
①将来の戦争の原因を含む平和条約は、そもそも平和条約とみなしてはならない
②独立して存続している国は、その大小を問わず、継承、交換、売却、贈与などの方法で、他の国家の所有されてはならない
③常備軍はいずれは全廃すべきである
④国家は対外的な紛争を理由に、国債を発行してはならない
⑤いかなる国も他国の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない
⑥いかなる国家も他の国との戦争において、将来の和平において相互の信頼を不可能にするような敵対行為をしてはならない
<確定条項>
Ⅰ どの国の市民的な体制も、共和的なものであること
Ⅱ 国際法は、自由な国家の連合に基礎をおくべきこと
世界市民法は、普遍的な歓待の条件に制限されるべきこと
<追加条項>
ⅰ 永遠平和の保証について
ⅱ 永遠平和のための秘密条項

メモ:
・カントの「共和的な体制」の意味(p.170、「解説」pp.341-56.)
・カントの「自然」の概念(p.191、「解説」pp.362-7.)

疑問:
・民族/国民の訳し分け方はどのように?

引用:
・「事実としては道徳性によって善き国家体制が構築されるのでなく、善き国家体制こそが、民族の善き道徳性を育むのである。」(p.206)

コメント:
詳細な論理展開についてはついていけていないと思うが、基本的な主張を確認。

2010年12月17日金曜日

翻訳の問題

今日、図書館でハバーマスの英訳の本を見つける。タイトルは、The Inclusion of the Other。パラパラとページをめくると、なんだか見たことあるような内容…と思って研究室に帰ってきたら『他者の受容』でした!

日本語のものは独語から翻訳してあるので原題がよくわからなかった。「Inclusion=受容」かぁ。なるほど。これまでは「包摂」と訳していたけれど、こちらのほうがしっくりきます。

カタカナ語はできるだけ日本語に置き換えたいと思う今日この頃。でも「語」が「事象」と完全に一致することはないので(2重にずれますかね…)翻訳は難しいですね、と改めて。

2010年12月15日水曜日

ならう

今日とある講演を聞いていて「ならう」ということが鍵になるのではないか、と思った。ある制度あるいは組織に属することの意味を考えていたら、この言葉に思いいたった。「教える―学ぶ」という関係性については言及されるが「ならう」という言葉は最近あまり聞かない(もしくはそういう環境にいる)。

テーマはe-learning。IT環境の中での学習と既存の制度や組織の中での学習は何が違うのだろうか。単純に言うと組織や制度に巻き込まれない、もしくはその程度が異なっているということがある。つまりは、周りの人との関係性の複雑さが大きく異なっている(と予測される)。さらには、制度や組織の中で実践されている(暗黙の)「慣習」に浸ることがないということもある。(それはe-learningでは別様に制度化されているということなのかもしれない。)

これは「隠れたカリキュラム」や「正統的周辺参加」という言葉で言いあらわされてきたことなのかもしれない。「ならう」(習う/倣う)ということについても考えていきたいと思う今日この頃。

2010年12月9日木曜日

【報道発表】PISA2009年度調査の結果について

【報道発表】
・OECD生徒の学習到達度調査(PISA)2009年度調査の結果について
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/22/12/1300002.htm

※詳細な分析も出ました。

2010年12月8日水曜日

【大臣会見】PISA2009について

【大臣会見】
・OECD生徒の学習到達度調査(PISA2009)について[高木文部科学大臣コメント](12月7日)
http://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/1299985.htm

コメント:
PISAの順位が低下すると政策の失敗と結び付けられ、PISAの成績が良くなれば過去の政策の成果として提示されることになる。どちらにしても、PISAの結果はこれまでの教育政策と関連づけられる。しかし、その検証はどのように行われているのだろうか。
PISAの順位は相対的なものであり、参加する国・地域等の数は毎回変化している。PISAの結果を政策に活かすならば、国際的にみた順位の上下ではなく、日本の前回のテスト結果との比較が重視されるべきではないだろうか。

研究の独創性

社会科学における研究の独創性についてどう考えればよいのだろうか。

研究を進める上で独創性(originarity)は常に求められるものである。この独創性は幅広い意味で考えることが可能である。例えば、対象の選び方やアプローチの仕方などがあるだろう。

ただその独創性を追求するあまり、専門の枠に閉じこもった研究、研究のための研究になってしまっては意味がないのではないだろうか。社会科学は不断に社会との関わりもち、社会に対して議論を拡大していく、問題意識を共有していくという志向性をもつものであると考える。

それでは大学院生の時点でめざすべき独創性とはどのようなものだろうか。ひとつの考え方として、批判的な思考力に重点をおくのがいいのではないだろうか。すなわち「オリジナルな思考」を示すのである。そのためには先行研究を十分に検討し、論点を整理し、論理的に考察をすすめていくことが求められるだろう。

これは独創性といえるものではないかもしれないが、独創的な研究をうみだすためには必須の技量ではないだろうか。数年という短い期間でできることは限られているのであるから、今後の研究生活につながるような技量を身につけることが重要であろう。

自戒をこめて。

2010年12月6日月曜日

組織論と経営論

M先生の授業に関して。

最近ようやく組織論と経営論の違いがわかってきた。M先生の話を聞いた限りではあるが、両者は組織をみる視点がまったく異なっていると思う。そのことを知れば知るほど、それらを同時に論じようとする先生はすごいことをやっていると思うようになった。

ただ、それが無理やりの力技なのか、領域同士をつなぐ新しい試みなのか、まだ判断はつかないけれど。

2010年12月4日土曜日

続・「学術スキル」なるもの

「学術スキル」なるもの(2010年5月8日)の続き。

最近、この問題は自分が大学院生であるうちに整理しておきたいと強く思うようになった。今まさにその必要性を感じているということもあるが、それ以上に、大学に院生として所属しているという立場をもっと有効に利用したいと思うようになったからである。できれば研究室メンバー、同級生などとも問題意識を共有して、将来研究者になるために大学院生時代に身につけるべき「もの」についてもっと考えを深めていきたい。

そこで、ひとまず関連する日本語の文献を調べようと思い立つ。キーワードを「スタディスキル」として、アマゾンのデータベースを利用して検索。そこから芋づる。

●天野明弘、太田勲、野津隆志(編)『スタディ・スキル入門―大学でしっかりと学ぶために』(有斐閣ブックス)、有斐閣、2008年.
●佐藤智明、矢島彰、谷口裕亮、安保克也(編)『大学 学びのことはじめ―初年次セミナーワークブック』ナカニシヤ出版、2008年.
●学習技術研究会『知へのステップ[改訂版]』 くろしお出版、2006年.
●佐藤望、横山千晶、湯川武、近藤明彦『アカデミック・スキルズ―大学生のための知的技法入門』慶應義塾大学出版会、2006年.
●北尾謙治、石川有香、西納春雄、実松克義、早坂慶子『広げる知の世界―大学でのまなびのレッスン』ひつじ書房、2005年.
●Kathryn L. Allen(著)『スタディスキルズ―卒研・卒論から博士論文まで、研究生活サバイバルガイド』伊藤俊洋、黒澤麻美、伊藤佑子、吉田朱美(翻訳)、丸善、2005年.

調べてみると初学者向けのものが多い。「初年次教育」や「フレッシュマン」というキーワードも散見される。比較的近年いろいろな本がでているようだ。大学院生向けのものは見当たらなかった。

…と書きながら、大学院生向けの本が出るとすれば、それは悲しむべきことなのかもしれないとも思った。でも、これまで明示化されてきていないことに焦点をあてる意義はあるはず。

2010年12月1日水曜日

11月中旬~下旬にかけて海外調査で不在にしていました。
更新が滞っているうちにあっという間に12月です。

ブログを日々更新するということの難しさを実感。
できるだけ定期的に更新できるようにしたいと思います。

2010年11月11日木曜日

伸びやかに…

昨日届いた授業のシラバス。
メールの本文には、「闊達な議論」や「伸びやかに知識を共有」する、という文言が。

「伸びやかに」という言葉をみてなんだか嬉しくなりました。
がんばろう。

2010年10月27日水曜日

地球はみんなのもの?

確かその同じ先生の授業で、小学校5年生の時に「地球はみんなのものである」について考えたことも思い出した。これは論理ゲームのようなもので、どの時点の言明が間違っているのかを当てるクイズとして出題された。

それは「地球はみんなのものである」から始まり、最終的には「あなたのものはわたしのものである」に落ち着くという展開だったと思う。

この時「正解」だったのは、一番最初の言明が間違っているということだった。つまり、「地球はみんなのものである」が間違いだったのである。「地球は誰のものでもない」のだ!このとき非常に驚いた記憶がある(だから、今でも覚えているのだろう)。

今思えば、これは「所有」という概念について考えていたのだなぁ。深いなぁ。

わからないことが、わかる

そういえば、小学校5年生のとき先生にほめられたことがあった。その理由は「わからないところが、わかった」からである。具体的な授業内容は覚えていないが、ほめられてなんだか気恥しかったのを覚えている。

学校ではしばしば「わかった!」のかどうか、という最終結果が求められる。「わからないところが、わかった!」はそのひとつ前のプロセスである。しかし、その前段階に至ったところで先生がほめてくれたのである。確か「わからないところがわかったひとは、わかるに一歩近づいたんだよ」という趣旨のことを聞いた気がする。

今考えると、この「わからないところが、わかった!」は、漠然とした疑問を具体的な「問い」へと組み替えるための重要な作業なのではないかと思う。先生はそのことを知っていたのかもしれない。

Y先生、元気かなぁ~。

2010年10月25日月曜日

三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』

三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)、講談社、1968年.

構成(pp.1-121.):
1 世界のありかたをどう見るか/2 弁証法はどのように発展してきたか/3 「対立物の相互浸透」とはどういうことか(※〈3〉認識論と弁証法――その一、絶対的真理と相対的真理および真理と誤謬との関係)

引用:
「真理は真理、誤謬は誤謬でどこまでいっても変わらない、この考えかたは形而上学です。真理は一定の条件において誤謬に転化するという媒介関係を認める、これが弁証法です。」(p.117)

コメント:
・弁証法が英語で'dialectic'であることを知り、それをなんとなく不思議に思い、以前この新書を買ったことを思い出して再読。
・買った当時も読んだが、ほとんど理解不可能だった…。今回は以前よりは理解できていると思う(理解できていない箇所にある程度自覚的であるため)。
・引用したのは、ある一定の条件下での真理が拡大して適用されることによって誤謬となることを説明した箇所。その「一定の条件」が何なのかを常に押さえる必要がある。

2010年10月21日木曜日

苅谷剛彦『知的複眼思考法』

苅谷剛彦『知的複眼思考法』講談社、1996年.

構成:
序章 知的複眼思考法とは何か/第1章 創造的読書で思考力を鍛える/第2章 考えるための作文技法/第3章 問いの立てかたと展開のしかた―考える筋道としての〈問い〉―/第4章 複眼思考を身につける

コメント:
・自分の頭で考える力を身につけるための基本的な方法について述べたテキスト。これまで自分で取り組んできたことを振り返りつつ、確認しつつ読むことができた。重要なポイントはいくつもあったが、印象に残った点をいくつか挙げたい。
・まず、テキストを読む際には「著者と対等な立場に立つ」ということ。これは、「〔著者が―引用者〕ほかの可能性の中でそれぞれのことばや表現が選ばれていった末に、目の前の活字になっている」(p.53)ということを理解することである。(最近は書くことに苦悩していたので、ひしひしと身にしみます…。)いろいろな表現がある中で、どのような言い回しが一番ふさわしいのか。そのような思考錯誤の「テキスト」の集積なのだと思うと、文献に対する姿勢も変わってくる。
・次に、第3章の「問いの立てかたと展開のしかた」である。漠然としたかたちの疑問をどのように「問い」とするのか。ある意味で無限の可能性が存在する中で、どのような問題として切り取るのか。そのプロセスの一端が示されていて参考になった。自分自身の研究についても、今後もっと意識してやっていきたいと思う。
・もうひとつは、第3章で取り上げられていた「概念」についての説明である。「概念」「ケース」「定義」と区別した上での説明がとてもわかりやすかった。
・最後に再認識させられたのは、文章として考えをまとめることの重要性である。「書くという行為は、もやもやしたアイデアに明確なことばを与えていくことであり、だからこそ、書くことで考える力もついていく」(p.86)という著者の指摘はごもっとも。普段はどうしても読むことが中心となってしまって、じっくりと書く時間を確保できていない気がするので、アウトプットすることを心がけていきたい(このブログを始めたのもその一環だったし!初心忘れるべからず)。
・今後も折をみて参照したい文献。

2010年10月19日火曜日

教材の電子化の帰結とは?

先日のNHKのとある番組で教材の電子化が取り上げられていた。

日本はICTに関する教育が遅れているという論調が大半で、海外(韓国やフランス)では一人に一台パソコンが与えられるようになる、という事実が日本の危機を伝えていた。

しかし、果たして教材の電子化をすすめることがそのままICTに関する教育につながるのだろうか。インターネットなどの電子メディアに関するリテラシーの涵養と、教材の電子化がもたらすであろう帰結(おそらく学校の市場化)をどのように考えればよいのだろうか。

参考:
「学校の内側と外側の間の温度差がほとんどなくなってしまった。『外部は存在しない。世界はすべてあますところなく〈市場〉に埋め尽くされている』というのが現在、学校で日々子どもたちが実感させられていることです。彼らが欲望することを教えられているのは『商品』であり、もはや『叡智の境位』ではありません。」(内田樹『街場の教育論』ミシマ社、2008年、p.185)

2010年10月18日月曜日

福田歓一『近代の政治思想』

福田歓一『近代の政治思想―その現実的・理論的諸前提―』(岩波新書A2)岩波書店、1970年.

●三 近代政治思想の原理構成(pp.95-160.)

引用:
・理性について
「この理性は人間をはなれてその絶対性を誇るような理性ではなくて、どこまでもなまみの人間にになわれ、その生存の欲求と結びついた、いわば感性と接点をもった人間の能力でありました。」(p.159)

コメント:
・ルソーの人間観。感性と切り離された理性ではなく、それと結びついたものとしての理性。それは、「社会の主人として政治に参加することによって、理性にまで高められる」(p.158)ものであること。
・『エミール』も読み直そう。

内田樹『街場の教育論』

内田樹『街場の教育論』ミシマ社、2008年.

引用:
・教育改革の主体は私たちである/教師たちをどう支援するか(pp.16-22.)
・「競争」ではなく「協力(コラボレーション)」(pp.103-109.)
・合い言葉は、「知りません。教えてください」(p.121)

コメント:
「絶対おもしろいに違いない!」と思って読むのを避けてきた(笑)のですが、昨日再びめぐりあったところで購入。そしてその日のうちに読んでしまいました。読みやすいなぁ。そして、勇気づけられる。ぼんやりと考えていたことが言語化される。んー、すごいなぁ。

余談:
ミシマ社という出版社をはじめて知りました。本に対する愛を感じました。

2010年10月14日木曜日

水山光春「シティズンシップ教育」

水山光春「第3章 シティズンシップ教育―『公共性』と『民主主義』を育てる」杉本厚夫、高乗秀明、水山光春著『教育の3C時代―イギリスに学ぶ教養・キャリア・シティズンシップ教育』世界思想社、2008年、pp.155-227.

構成:
1 子どもたちの現状と民主主義の誤解/2 イギリスにおけるシティズンシップ教育/3 日本におけるシティズンシップ教育/4 これからのシティズンシップ教育

※コメント等は後ほど。

2010年10月13日水曜日

ルソー『社会契約論』

ルソー『社会契約論』岩波文庫・青623-3(桑原武夫、前川貞次郎訳)岩波書店、1954年(2006年).

※Rousseau, Le Contrat Social, 1762.

●第1編(pp.14-41.)
●第2編(pp.42-82.)

引用:
・ルソーの用語の使い分け(p.31)
人々の結合によって形成される公的な人格
 =都市国家(Cite)、共和国(Republique)、政治体(Corps politique)
その他の呼び名
 =国家(Etat)、主権者(Souverain)、国(Puissance)
構成員
 =人民(Peuple)…集合的に、市民(Citoyens)…主権への参加、臣民(Sujets)…国家の法律への服従
・共和国とは?
「法によって治められる国家を、その行政の形式がどんなものであろうとすべて、共和国とよぶ。なぜなら、その場合においてのみ、公けの利益が支配し、公への事がらが軽んぜられないから。すべての合法的な政府は、共和的である。」(pp.59-60.)

コメント:
・一般意思の規定のしかた、一般意思と主権の関係をおさえる。
・「国民」という訳が出てくるが、どのような意味合いで使われているのだろう?国家の構成員であること?

2010年10月11日月曜日

ナンシー・フレイザー「再配分から承認まで?」

ナンシー・フレイザー「再配分から承認まで?―ポスト社会主義時代における公正のジレンマ」(原田真美訳)『アソシエ』第5号(2001年1月)、pp.103-135.

※この論文は、1995年3月に開かれたミシガン大学心理学部のシンポジウム"Political Liberalism"における講義を若干修正したものである(p.125)。

構成:
1 再配分と承認のジレンマ/2 搾取される階級、嫌悪されるセクシュアリティ、二価共同体/3 肯定か変容か? 救済問題の再考/4 ジレンマの回避―ジェンダーと「人種」の再考/5 結論

問い:
経済的不公平を解消しようとする「再配分」と文化的不公平を解消しようとする「承認」のジレンマをどのように解消するか?(前者は集団の脱分化を促し、後者は集団の分化を促す点でジレンマの状況にある。)

著者は「肯定」と「変容」というアプローチを提起し、このジレンマ状況を解消するには「変容」アプローチが有効であるとする。
(肯定アプローチ:「再配分」=自由主義的福祉国家/「承認」=主流の多文化主義
 変容アプローチ:「再配分」=社会主義/「承認」=脱構築)

ただし、「このシナリオを心理的かつ政治的に実行可能とするには、自己の利害関係やアイデンティティの基礎となる現在の文化構造に対する執着から、全ての人々を引き離さなければならない」(p.123)という。

コメント:
・わたしは「肯定アプローチ」に基づいてものごとを考えていることが判明。
・確かに「変容アプローチ」は「肯定アプローチ」がもたらす悪循環を回避できる可能性が高いのかもしれない。
・しかし、それに素直に与することができないのは「現在の文化構造に対する執着から、全ての人々を引き離さなければならない」という条件が実行不可能に思えるからだろう。
・ただし、著者の福祉国家と多文化主義政策の限界の指摘はその通りだと思った。
・さらに考えを進める必要あり。

未熟さを思い知る

文章をまとめるとはなんと大変なことなのか、と思う。言いたいことや書きたいことと、それを裏付けるために必要な資料。これらをどうやって組み合わせるのか。

今回の文章も書いているうちに当初構想していた筋書きとは少しずつ違う方向になっていった。見通しが甘いのだ、きっと。あとはもっともっと「書く」トレーニングを積む必要があるのだろう。

未熟さを知って、がんばろう。

2010年10月8日金曜日

鈴木寛さん

文部科学副大臣に再任された鈴木寛さん。今更ですが、経歴をみてみた…んー多彩。

すずきかん公式ホームページ
http://www.suzukan.net/

「すずかん.TV」という面白い試みも。文部科学副大臣の就任後は休止しているよう。
http://suzukan.net/suzukan.tv.html

そして、10月5日の「文部科学省新着情報」をみたところ下記の内容が。

【報道発表】
・コミュニティ・スクールの在り方を考える「熟議」の開催について
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/22/10/1298147.htm

「熟議」を通した政策形成プロセスに興味あり!一体、どのように話し合いがなされるのか…。この情報をコミュニティ・スクールに関心を持っている院生仲間に伝えたら、参加するとのこと。あとでどのような展開になったか教えてもらおう~!

さらに、著書を調べていたら、鈴木寛さんは金子郁容さんの『コミュニティ・スクール構想』の共著者だったことが判明!昔読んだときは気に留めていなかったけれど、そうか、両者の繋がりは昔からあったのかと妙に納得する。

2010年10月1日金曜日

論文検索

★Archives Européennes de Sociologie; European Journal of Sociology

関連論文をPDFファイルで保存する(3編)。

未入手:
Joppke, Christian (2010) 'The Inevitable Lightening of Citizenship'
Archives Européennes de Sociologie, Cambridge: Apr 2010. Vol. 51, Iss. 1; p. 9 (24 pages)

論文をかく

思考が混乱状態に陥ったため、頭の中を整理する。

「問い」を設定する。
「答え」を提示する。
「論証」する。

シンプリファイ。

2010年9月28日火曜日

ジョイント・セミナー

昨日、一昨日と4つの大学の院生が集まって一緒にセミナーを行いました。先生方も含め、だいたい20人くらい集まりました。4つの大学の院生幹事が中心となって準備をしたのですが、メールでのやりとりが中心となったため大変でした…(^^;

今回は参加者をいくつかのグループに分けてディスカッションを行いました。他大の院生や先生方と意見交換する貴重な機会となり、なかなか楽しいものでした。懇親会も盛り上がりました。

今後に残された課題はディスカッションの時間が短かったことと、テーマ設定のしかたです。後者についてはもっと論点をしぼれたらよかったと思う反面、その論点を設定する意義を短い時間の中でどの程度共有できるのかが疑問…と、なかなか難しいところです。

今回が初の試みでしたが、ぜひ来年も継続したいものです。サステイナビリティ。

読書会のテーマ

本日の参加者の共通テーマを探り合う。

キーワード(思いつくまま):
社会科教育(歴史、公民)、言語、多文化共生、シティズンシップ、オーラル・ヒストリー、政策分析、エスノグラフィー、アメリカ、キルギス、南アフリカ、イングランド、など。

そして漠然としたテーマを設定。

テーマ:
『多』と『他』

今後どういうふうに展開するか…。

2010年9月27日月曜日

金泰明『共生社会のための二つの人権論』②

金泰明『共生社会のための二つの人権論』トランスビュー、2006年.

構成:
第5章 価値的人権原理とは何か/第6章 ルール的人権原理とは何か/第7章 現代日本の神話と課題/第8章 開かれた共生社会をもとめて

コメント:
・人権と市民権の違いについてはこの本の中心的なテーマではなかった。
・人間として享受できる権利をどのように根拠づけるか、という点が論点。そのための〈価値的人権原理〉と〈ルール的人権原理〉という枠組み。
・社会契約説の立場からみた国家。「社会契約説によれば、国家や政府は、国民の生命や財産さらには人権を守るために国民の同意によって設立されるので、国家権力は好きかってに個人の権利を制限したり禁止したりすることはできません。」(p.80)
・社会契約説に基づけば、人権は国家と契約した人々が享受できる権利ということになる?とすれば、人権は市民権(政治共同体の成員であることによる権利保障)というかたちでしか現れ得ないということ?
・著者の構想。「開かれた共生社会へ向かう基本的な道筋として、現存するマイノリティへの差別や不平等に対しては〈価値的人権原理〉で対処しながら、長期的な展望としては〈ルール的人権原理〉に基づく開かれた共生社会を構想するというものです。」(p.202)
・コメントまとまりきらず。人権原理についての基本的な点についても再度整理する必要あり。
・金泰明『マイノリティの権利と普遍的人権概念の研究―多文化的市民権と在日コリアン』(トランスビュー、2004年.)も読もう。

2010年9月23日木曜日

金泰明『共生社会のための二つの人権論』

金泰明『共生社会のための二つの人権論』トランスビュー、2006年.

※明治学院大学大学院で竹田青嗣氏のもとで学ぶ(p.26)。
※金泰明『マイノリティの権利と普遍的人権概念の研究―多文化的市民権と在日コリアン』(トランスビュー、2004年.)をもとにして、一般の読者に広くわかりやすく、普遍的人権論を説明しようとするもの(pp.53-54.)。

構成:
序章 人権論の視座/第1章 わたしはなぜ人権を論じるか/第2章 二十一世紀の新たな問題/第3章 会議は踊る/第4章 人権の二つの原理

コメント:
・〈価値的人権原理〉と〈ルール的人権原理〉という枠組みをもとに人権思想について考察した本。わかりやすく書いてあり、基本的に読みやすい(そしてなんだか勇気づけられる)。
・人権と市民権の違いをどのように捉えているかに着目して後半部を読み進めたい。

2010年9月21日火曜日

クリスティーヌ・ロラン-レヴィ『欧州統合とシティズンシップ教育』

クリスティーヌ・ロラン-レヴィ、アリステア・ロス(編著)『欧州統合とシティズンシップ教育―新しい政治学習の試み』(中里亜夫、竹島博之(監訳))明石書店、2006年.

●アリステア・ロス、クリスティーヌ・ロラン-レヴィ「第1章 イントロダクション―今日のヨーロッパにおける政治的成長」(pp.11-35.)
・重層的なアイデンティティに対応する政治制度
「政治制度に対する忠誠のあり方も多様な形をとることになるであろう。そうなれば政治制度それ自体も、個人のアイデンティティのこうした複雑さに対応する中で、より一時的なもの、多次元的なもの、潜在的に断片的なものへとなっていくであろう。」(p.16)

●アリステア・ロス「第2章 子どもたちの政治学習―『概念に基礎をおくアプローチ』対『論点に基礎をおくアプローチ』」(pp.36-61.)
・ヨーロピアン・シティズンシップ
「新たなヨーロッパに依拠した新しいシティズンシップないしアイデンティティの観念は、国民国家における従来型のシティズンシップと明らかに異なるものでなければならない。すなわちそれは、これまでのように自民族中心主義的ではなく、より多様で包括的なものであり、ナショナリスティックな考え方とは結びつかない観念である。」(p.43)
「排外主義、人種主義、そして彼ら〔―ヨーロッパ・シティズンシップの促進に関心をもつ人〕が将来問題になると見ている『ローカルな』ナショナリズムを過剰に強調する主張、こうしたものに対抗するものとして『ヨーロッパ・シティズンシップ』に期待しているのである」(p.45、〔〕内引用者)

●イアン・デイヴィス、トニー・ソープ「第3章 市民としての思考と行動」(pp.62-89.)

コメント:
ロスの主張は、ヨーロッパレベルのシティズンシップを促進することによってナショナルレベルのシティズンシップを相対化することにある。その際に問題視されているのは、過剰なナショナリズム(自民族中心主義)である。気になるのは、ネイションに対してヨーロッパという存在が善なるものとして、またある種の統一体として対置されているように思える点である。さまざまなレベルにおける多元性をどのように捉えるのか?

論文検索

★Educational Review
★Comparative Education

関連論文をPDFファイルで保存する。
そのうち3編をプリントアウトする。

2010年9月19日日曜日

全国民主主義教育研究会編『政権交代とシティズンシップ』

全国民主主義教育研究会編『政権交代とシティズンシップ』(民主主義教育21・別冊)同時代社、2010年.

※全国民主主義教育研究会の研究集会での講演集。

●二宮厚美「民主党政権下の日本と新自由主義」(pp.7-39.)
・人間関係の貧困(ネットカフェ難民について)
「肉親を含めて人と人とのつながり、誰かが援助するとか誰かが支えるというつながりがないから連帯保証人がいない。…/人間関係、人が人を支えるサービスが同時に不足すると、お金がないということと合わせて、人々は従来とは違う貧困に陥れられる。」(p.25)
・所得の再分配
筆者が主張するのは「垂直的所得再配分」。すなわち、「まず上層あるいは大企業から所得を吸い上げて垂直的、つまり縦型で、上の資金を下に回す」こと(p.29)。言い換えれば、「応益負担ではなくて応能負担原則を貫いて能力のあるものから賃金を吸い上げる」こと(p.30)。これは所得税や法人税を累進的に課す(累進課税)に近い?

●小玉重夫「いま求められる政治教育と学校のあり方―シティズンシップ教育の観点から」(pp.41-60.)
・批判的にみること
「価値対立がある論点について議論をし、自分が何らかの判断をして意思決定をしていく」(p.45)
・社会構造の変化と学校教育の課題
「司法制度改革にしても国民投票法にしても、世の中の動きは、市民が法の制定や運用の意思決定に直接参加するようなルートを拡大していく方向」(p.54)にある。このような状況の中で、「労働と政治とはこれまでの学校の中でタブー視されてきた」(p.56)が、「学校こそが労働や政治というものを正面から引き受けなければならない」(p.50)という。
・シティズンシップ教育の意義
「シティズンシップ教育というのは基本的にアマチュアリズムの教育なのです。無能な市民というと語弊がありますが、『有能な』無能者というか(笑い)、成熟した無能な市民、そういう人を育てるというところを重視したいと考えているのです。…競争ではなくて批評と論争に開かれた教育です。そこでは、知識の批評化とかカリキュラムの市民化ということが求められるのではないかと思っています。」(p.56)
 …知識の批評化=知識を論争(対立や葛藤)の文脈に位置づける(p.57)
 …カリキュラムの市民化=新しい教師の役割?
 「専門家集団と市民が同等な関係になる。そして学校の先生がそれを橋渡しするような存在になる」(p.57)
・公共性とそのジレンマ
「公共性とは、異質なものを排除しない多様性、複数性がその条件をなしております。その際に、異質性を排除しないということ、排除しないことを通じて様々な社会的な問題を開かれた形で批評空間に載せていくということ、これらが追求される必要があると思います」(p.58)
「寛容や共感によっていろいろな人が共存し合うということと、ラディカルデモクラシーがいっている論争し批判し合うということの二つをどう両立させるか」(p.59)

●石田英敬「『言論による政治』は復権するか―ネットの時代と民主主義」(pp.61-87)
・消費社会がもたらした変容
「消費者をある意味で非常に子どもに近い状態に置いておくことが社会的に非常に活性化する。…あらゆる視聴者を子ども扱いしていく。受動的なメッセージの受け手に変えていく。」(p.66)

コメント:
・二宮氏の講演記録を読んでトリクルダウン説を思い出した。トリクルダウン説とは、「『富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が浸透(トリクルダウン)する』とする経済理論あるいは経済思想である」。しかし実際には、「国民全体の利益としては実現されない」と批判されている(Wikipedia「トリクルダウン理論」)。ここで、例えば税制改革を行えばトリクルダウンは実行可能なものとなるのだろうか?もしくは別の点が問題となるのか?
・小玉氏の講演記録は、氏が主張するシティズンシップ教育の意義について読みやすくまとめられており、理解しやすかった。シティズンシップ教育推進の背景要因としては、福祉国家体制から市民社会主導型の国家体制への組み換えが行われていることを一番重視しているようである。その他の論文で要確認。
・石田氏は今後のメディアのあり方を考える上で興味深い論点を提示していると思った。とりわけ関心をもったのは、後半の公共性や社会性を担保するような情報基盤を作らないといけないという主張である(pp.77-86.)。それが共有される範囲というのはどのように想定されているのだろう?ここでは「日本」という社会が暗黙に前提とされている気がするが、インターネットというメディアの特性を考えると、その共通枠組みはいろいろな範囲で考えることが可能となるのではないだろうか。加えて、対面での直接のコミュニケーションについても考慮に入れる必要があるのではないか。ネットだけを使っているとしても、「みんながオタクになる(p.78)わけではないだろう。関連する点として、メディアと無関係な人間というのは想定されているのだろうか?

2010年9月17日金曜日

菅首相・内閣改造

「菅首相:内閣改造 新閣僚決まる」
『毎日新聞』2010年9月17日 13時52分(最終更新 9月17日 15時37分)
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100917k0000e010056000c.html

▽文部科学=高木義明(敬称略)


川端達夫文部科学大臣が交代になりました。
中川正春文部科学副大臣、鈴木寛文部科学副大臣も交代となるのでしょうか…?

2010年9月16日木曜日

ヤング「政治体と集団の差異」

アイリス・M・ヤング「政治体と集団の差異―普遍的シティズンシップの理念に対する批判―」(施光恒訳)『思想』No.867(1996年9月)、pp.97-128.

※初出:Iris Marion Young, "polity and Group Difference: A Critique of the Ideal of Universal Citizenship", Ethics, Vol. 99, No.2(January 1989), pp.250-274.
※訳稿は次の編著に収録された論文に基づく:Ronald Beiner, ed., Theorising Citizenship, Albarny: State University of New York Press, 1995, pp.175-207.

構成:
1 一般性としてのシティズンシップ(排除を生み出す普遍的シティズンシップの理念/「普遍性」、「一般性」という神話/)
2 集団代表権としての差異化されたシティズンシップ(民主主義のパラドックス/集団、集合体、結社/抑圧の概念/集団代表制の機構/異質性を帯びた公衆/集団代表制の実践)
3 普遍的権利と特別な権利(法規や政策の普遍的定式化に対する批判/特別な処遇を要求する事例/差異に配慮する具体的政策/特別な権利の意義)

感想:
ようやく読むことができた…といっても時間がなかったから読めなかったというわけではなく、わたしの読解力の問題。5年前に読もうとしたときには、ちんぷんかんぷんだった…途中で挫折。1年前には一通り読むことはできたが、十分に著者の主張を理解することができなかったように思う(文献にメモがなかったため)。恥ずかしながら、ようやくおおまかな論理展開を把握できるようになった。今後も繰り返し読み込む必要がある文献。

2010年9月13日月曜日

大澤真幸『ナショナリズムの由来』②

大澤真幸「第一部 原型:ナショナリズムの由来/Ⅰ 普遍主義の倒錯」『ナショナリズムの由来』講談社、2007年、pp.49-111.

構成:
1 普遍主義の倒錯/2 ネーションの空虚な規定/3 ナショナリズムの三つのパラドクス/4 ネーションの三つの条件/5 ネーションの誕生日

コメント:
・基本的にアンダーソンを踏襲して論を展開している。
・ネーションは「生活様式の同一性」によって区別されるということの意味(p.74,102)は?実態としてなのか、それとも理念(規範)としてなのか。意識的には書き分けられていないようである。一見するとネーションを文化的同一性によって特徴づけているようにも受け取れる。
・一番すとんと理解できたのは、「ネーションの一つの特徴は、ときに熱狂にまでいたる、平等についての大衆的な幻想である」という箇所(p.105)。わたしがこの点からナショナリズムを理解したいということでもあるだろう。
・ナショナリズムを現実の不平等に対する異議申し立てとして考えるということ。すなわち、「民衆」が結託するための理念としてのナショナリズムという側面。(これは運動論的解釈になるだろうか。いわゆる、「下からの」ナショナリズム?民衆の思想であるからそこ、平等を志向するからこそ、偉大な思想家を生みだしはしなかった?)

2010年9月10日金曜日

【審議会情報】定住外国人の子どもの教育等に関する政策懇談会

【審議会情報】
・「定住外国人の子どもの教育等に関する政策懇談会」の意見を踏まえた文部科学省の政策のポイント 現在の進捗状況について(平成22年8月31日)
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/kokusai/008/toushin/1297513.htm

2010年9月8日水曜日

電子ファイルの管理

これまで「日付+タイトル」で保存してきた論文などの電子ファイル、非常に使いにくい(探しにくい)ことを再認識する。せっかく論文を入手しても活かせずじまいになっていました…。

そこで、参考文献と同じように「著者(出版年)タイトル」で再度整理し直すことに。見栄えもいいし、使いやすくなりそう。

ぼちぼち整理しよう~。

2010年9月7日火曜日

花崎皋平『〈共生〉への触発』

花崎皋平『〈共生〉への触発―脱植民地・多文化・倫理をめぐって』みすず書房、2002年.

「Ⅵ章 マイノリティの思想としてのフェミニズム―上野千鶴子との対話」(pp.209-280.)
※初出―『情況』1992年10、11月合併号所収。

共生について:
花崎 理解というのは自分の持っている解釈体系にいれることなんです。…自分の解釈体系はあてはまらないんだ、適用したらまずいんだっていうことを知るところで、いったん自己を相対化する。それが『共生的な了解』の出発点だと思います。」
上野 理解にはカタルシスがあるでしょう。共存にはカタルシスがないんです。」
花崎 ああそうですね。」
上野 つねにフラストレーションがある。」(pp.270-271.)

その他:
・地球を閉鎖系と考える思考
 「上野 あなたの繁栄は誰かの犠牲のもとで成り立っているという、その発想が出てこないんです。」(p.227)
・制度を閉鎖系と考える思考(p.258)
 「上野 制度論的な議論は、あるシステムを閉鎖系としてとらえたときにだけなりたつような議論ですね。私は近代主義批判というものはどれもすべて―とくに近代経済学批判がそうですけれども―システムを閉鎖系としてとらえたとたんにおきた間違いを衝いているのだと思っています。」(p.258)  
・関係的カテゴリーとしての男性/女性(p.228)
 「花崎 女性の反差別の運動は、性差なき平等をめざすものではなく、性差を差別にしない関係の表現ということになりますね。」(p.230)
 「上野 私たちは弱者である、社会的少数者であるということを認めて、弱者のままで、社会的少数者が誰からも抑圧されずに生存できる、ということが実はゴールだったんじゃないか。」(p.232)
・概念の権力性
 「上野 言説というものは、あるいは概念というものは、つくったとたんにもうすでに権力的なものですよ。フェミニズムだってそういう言説の権力―対抗権力と呼びたいですが―は行使していますから。」(p.237)
・思想は思想の問題
 「上野 思想は思想の問題として解けるんだから、ここにこういう欠点があるとか、こういう間違いがあるということはその限りできっちり言い合うことができると思うんですが。」(p.237)
・普遍主義への問い
 「上野 私はやっぱり基本的に関係的な場にとどまって考えたい。…私は前に『複合差別』という言葉をつくったりしたんですけれど、どうもうまくいかない。」(p.234)
 「上野 『人権』という概念、そういう普遍的な概念のもとに、多様な差別の問題を包括できると考えていらっしゃいますか。」(p.240)
 「花崎 女性差別と、障害者差別とか、そういうそれぞれのコンテクストがあって、それぞれのコンテクストがそれぞれのコンテクストで、対話的な関係を成立させるところでとどまるべきだということですか。」
 「上野 それ以上は私にはわかりません。」(p.259)
・「他者」の思想としてのフェミニズム
 「上野 フェミニズムは徹底的に『他者』の思想ですから、あんたにわかるわけない、わかってたまるか、ということろがあります。わかってもらえなくてもいい、ただしわからないままに私をあるがままに認めてほしい、そういう思想です。」(p.257)
 「上野 自己決定の要求には、私に必要があるときに、その必要を満たす能力のあるあなたには、私にそれを提供する義務がある、ということまで含むはずなんです。」(p.275)

コメント:
長い引用になってしまいましたが、興味深い論点がいくつも出されていたので。備忘。上野さんからの引用が多いですね…。

2010年9月1日水曜日

国籍法の改正(平成20年12月12日)

法務省HP:国籍法が改正されました
http://www.moj.go.jp/MINJI/minji163.html

「平成20年12月12日,国籍法が改正(平成21年1月1日施行)され,出生後に日本人に認知されていれば,父母が結婚していない場合にも届出によって日本の国籍を取得することができるようになりました。
 また,虚偽の届出をした者に対する罰則が設けられました。」

コメント:
2009年から施行された国籍法の改正内容のメモ。

【報道発表】高等学校の課程に類する課程を置く外国人学校の指定に関する基準等について(報告)

【報道発表】
・高等学校の課程に類する課程を置く外国人学校の指定に関する基準等について(報告)(平成22年8月31日)
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/22/08/1297232.htm

高等学校等就学支援金の支給に関する検討会議(報告)〔概要〕
高等学校の課程に類する課程を置く外国人学校の指定に関する基準等について(報告)
関連資料

基準(概要より):
1.教育課程等
○高等専修学校に求められているレベルに加えて、3年間の修業年限と、体育・芸術等の科目を含む高度な普通教育に類する教育を施すにふさわしい授業科目の開設が必要。
○個々の具体的な教育内容については基準としない。
・既に指定されている他の外国人学校ついて、教育内容を基準としていないこと
・既に指定されている専修学校高等課程について、具体的な教育活動の内容に関する基準が定められていないこと

2.教員の資格
○高度な普通教育に類する教育を実施する資質として、教員としての職務を実施するに必要な専門的教育を受けていることが必要。

3.施設・設備
○専修学校高等課程と同様に必要な校地、校舎、設備を備えていることが必要。

4.運営及び情報提供
○法令に基づく学校の自己評価、情報提供及び公表が適正に行われていることが必要。
○就学支援金の管理その他の法令に基づく学校の運営が適正に行われていることが必要。

佐々木てる『日本の国籍制度とコリア系日本人』

佐々木てる『日本の国籍制度とコリア系日本人』明石書店、2006年.

構成:
序論 在日コリアンの国籍取得とコリア系日本人/第1章 戦後日本政府にとっての国籍制度とネーションの設定/第2章 戦後日本国籍取得者の概況/第3章 コリア系日本人への意識調査/第4章 コリア系日本人のアイデンティティに関する理念的把握/第5章 日本国籍取得者のライフストーリー/補論 近代日本における国籍制度の誕生

要旨:
著者は「民族的なルーツを大切にすることと、日本国籍を取得することを共存させていく戦略」(p.20)を念頭に、「コリア系日本人」という枠組み(用語)を提起する。それは、日本国籍を取得した在日コリアンを指す。このような枠組みが必要となるのは、「『日本人』対『在日コリアン』といった二項対立は、日本社会と在日コリアン社会の双方から排除される人を生み出すことになる」(p.22)からである。この「コリア系日本人」という用語をひとつの記号(=使用される文脈において意味づけが変わるもの)としてとらえ、それが持つ意味として以下の3点を挙げている。①「コリア系日本人」の不可視の状態、アイデンティティを回復する、②記号的なイメージから引き起こされる「コリアン」対「日本人」という二分法をさけ、双方の共生、調和を存在としてイメージさせる、③「日本人が単一民族である」というイメージを内部から変容させる(pp.23-25.)。

2010年8月30日月曜日

中川正春文部科学副大臣「攻めの文化行政」

【大臣会見】
・中川正春文部科学副大臣記者会見録(平成22年7月21日)
http://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/1296064.htm

※記者からの文化庁を中心とした(日本)文化の海外発信についての質問に対して:

副大臣)
…私自身の問題意識として、文化庁のこれまでの行政はどちらかというと守りというか、文化を保存していく、それをじっくり生かしていくというところに重きを置いた行政だったのかなという評価なんです。それを思うと、逆に攻めの文化行政というか、文化発信をして、それが観光に結びついたり、地域の産業化に結びついたりしていって、私たちの新しいライフスタイルの中にそれが拡散されていくというか、そういうような形の文化行政というのもあってしかるべきなんじゃないかと、それが欠けていたんじゃないかという思いがしまして、攻めの文化行政という思いを込めて行政を出発させていたという経緯がありました。

コメント:
「文化」の捉えかたに着目。

2010年8月27日金曜日

コリアNGOセンター『News Letter』

※『解放教育』<特集=多文化教育のいま> 2008年12月
榎井縁「『多文化教育のいま』を考えるにあたって」(pp.7-23.)から芋づる。

●8/9号(2006年8月25日発刊)
<特集=多民族多文化共生と日本>
「在日外国人住民も、地域社会の構成員に!
 政府の多文化共生施策の提言を総務省がまとめる」(pp.24-27.)

●17号(2008年7月25日発刊)
<特集=現場から構想する多文化共生>
「座談会 市民・NPOの対抗軸は何か―『人権』・『地方分権』・『アジア的視野』がカギ」(pp.6-17.)
(コーディネーター:宋悟/金光敏、田村太郎、戴エイカ)

●19号(2009年2月15日発刊)
<特集=多民族共生教育フォーラム2008大阪>

コメント:
・NGOからみた総務省報告書の評価(8/9号)。
・座談会(17号)とフォーラム(19号)でも総務省報告書が話題に上っており、NPOの立場から研究会に参加した田村さん、元総務省自治行政局国際室長で研究会に関わった山崎さんの発言が興味深い。
・「戴 『多文化共生』という言説を吸収している政府側の人たちの認識の中に、旧植民地出身者や『日本国民』の民族的・文化的背景の多様性に対する視点もなく、かつ『戦略性』もないことは逆に怖いことではないかと思います。潜在的な思考があるように思えます。それが広く共有されているとしたら、意図的ではないがゆえに把握しにくく、批判したり対処したりするのが難しい。」(17号、p.12)
・政策の戦略性のなさ、意図的ではないがゆえの批判のしにくさ、権力が可視化されないことの問題性を指摘している点が興味深い。政策立案のプロセス、あるいは組織上の問題点。

2010年8月19日木曜日

『解放教育』<特集=シティズンシップ教育>

●2010年9月
<特集=シティズンシップ教育は何を提起するのか
    ~シティズンシップ教育にかかわる資料と解説>

民主主義的シティズンシップ教育と人権教育に関する欧州評議会憲章
二一世紀をめざすシティズンシップ教育―ユネスコ
児童の権利に関する条約(抜粋)
シティズンシップ教育と経済社会での人々の活躍についての研究会報告書(抜粋)―経済産業省


[8/19―修正]

『解放教育』<特集=多文化教育のいま>

●2008年12月
<特集=多文化教育のいま>

榎井縁「『多文化教育のいま』を考えるにあたって」(pp.7-23.)

総務省の「多文化共生推進プログラム」について、「第1回目の研究会が開かれる直前に対象者が限定されたという経緯がある。すなわち、先住民族、旧植民地出身者、オーバースティの問題がその対象から外され、日本語でコミュニケーションできない人たちに共生の対象が限られた」(p.7)。ここでは、どのような経緯でそうなったのかは述べられていない。しかし、「教育の分野で今この『多文化共生』の波に乗ることは、積み上げてきたものを絡みとられてしまうような危険性を感じている。〔それは〕歴史も人権も抜きにして、沢山いるのですから一緒にやりましょうという、マジョリティ側を問わない発想」(p.8)があるからだという。「『多文化共生教育』にしても、旧植民地出身者の教育権を保障する運動をしてきたものたちが、資料で確認される限り1991年から今後増えるであろう外国人の子どもたちを想定して戦略として使用するようになったことば」なのである。
また多文化教育のアプローチとして、①マジョリティ側の認識変革に重きを置いたもの(life style approach)と、反差別の視点にたったマイノリティ側の権利保障を推進するもの(life chance approach)を挙げた上で、ニューカマーの教育問題を権利保障の問題といち早く捉えたのは、在日コリアンの教育運動にかかわってきた教育実践者や研究者たちであったという(pp.9-10.)。しかし、「教育を受ける権利の主体として外国人の子どもが認識されなければそれは放置されていても容認されうる」(p.12)。
その一方で、日本人の子どもたちへのアプローチは、「足元の文化的多様性の認識や日本の学校文化の変容をめざす、多文化教育」とは程遠い方向に向かっているようすが伺えるという(p.16)。

コメント:
・現在の日本の多文化共生政策に対する教育分野からの視点。コリアNGOセンターから発行されている雑誌でも座談会が組まれたという(雑誌発注―8/19)。
・マジョリティ/マイノリティという枠、日本人/外国人という枠で論じてしまうことの限界。その中の多様性をどのように認識するのか。
・同等の権利を保障することと、差異を承認すること(C. テイラー)の重要性。その際、承認される「差異」とは何か。誰がその基準を決定しているのか。それはどのような根拠によって正当化されているのか。

[8/19―修正]
[8/27―著者、題目追加]

2010年8月17日火曜日

カール・セーガン『人はなぜエセ科学に騙されるのか』

カール・セーガン(Carl Sagan)/青木薫(訳)『人はなぜエセ科学に騙されるのか〈上・下〉』(新潮文庫)、新潮社、2000年.

※実家に帰った際に兄からすすめられた本。久々の文庫本。
※『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』新潮社、1997年.
 『悪霊にさいなまれる世界―「知の闇を照らす灯」としての科学』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)、早川書房、2009年.

読んだ章:
〈上〉はじめに/第1章 いちばん貴重なもの/第2章 科学と希望
〈下〉第25章 真の愛国者は問いを発する

コメント:
「科学とは何か」ということを明快に述べた本。著者は天文学(理系)の研究者なので、これを社会科学におきかえるとどのような語り方ができるのだろうか、と思った。そういえば、少し前に文科省でも検討が行われていたことを思い出す。平成21年ということは…2009年、昨年だ!時間のあるときに残りの章も読もう。

文科省HP
人文学及び社会科学の振興について(報告)-「対話」と「実証」を通じた文明基盤形成への道―(http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/21/02/__icsFiles/afieldfile/2009/02/09/1236243_2.pdf

[8/18―修正]

姜尚中、テッサ・モーリス-スズキ『デモクラシーの冒険』

姜尚中、テッサ・モーリス-スズキ『デモクラシーの冒険』(集英社新書)、集英社、2004年.

要旨:
「グローバルな権力が国民国家の範囲を超えている」(p.231)中で、どのようにデモクラシーを再興するのか。その一方で「民主化と非民主化の同時拡大」(p.174)をどのように考えていくのか。「消費者」としてではなく「デモス」としての行動のすすめ(あとがき)。

・ジョルジュ・アガンベンも「住民アプローチ」を提起している(pp.175-176.)ようである。

2010年8月12日木曜日

近藤敦「日本における外国人のシティズンシップと多文化共生」

近藤敦「日本における外国人のシティズンシップと多文化共生」(pp.119-151.)
辻村みよ子・大沢真理編『ジェンダー平等と多文化共生―複合差別を超えて―』東北大学出版会、2010年.

※東北大学グローバルCOE(GCOE)「グローバル時代の男女共同参画と多文化共生」プログラム
「多文化共生社会におけるジェンダー平等」研究プロジェクトの共同研究の成果
http://www.law.tohoku.ac.jp/gcoe/

構成:
1 はじめに―新たな政策用語としての多文化共生/2 外国人のシティズンシップの展開/3 憲法と国際人権諸条約/4 入管法と国籍法/5 多文化共生の法制度の指標:政治・経済・社会・文化・法的共生/6 おわりに―ジェンダー平等と多文化共生

第1節:
・目的(p.119)
在住外国人の法制度をめぐる日本の特徴と問題を明らかにし、多文化主義的な法制度に向けた課題(の抽出?)を諸外国との対比のうちに行う。
・多文化共生/共生という用語―訳の例示(p.119)
multicultural living-together, multicultural conviviality, multicultural coliving, multicultural coexistence, multicultural symbiosis/living-together, Zusamenleben,samenleven, vivre ensemble
「共生は、異なる人々の平等な参加を意味する日本語であり、ヨーロッパ諸国でいう『統合』に近い意味をもつ。多文化共生は、カナダやオーストラリアなどの多文化主義とは必ずしも一致するものではない」
 cf) Yamawaki(2008)
「多文化共生という用語は、日本オリジナルなものであるが、類似の表現がヨーロッパ諸国にもないわけではない。…また、統合と共生は、一定の互換性を有する概念ともいえる。」(p.120)
 ex) 政策の対象の広がり方
「多文化共生政策という場合は、同化政策としての意味合いをもたせにくく、多文化主義的な統合政策を意味する。多文化と共生は2つの内容をもっている。共生は統合とかなりの程度重なるものであり、市民的・社会的・経済的・政治的権利の保障を内容とし、多文化の方は文化的権利の保障を内容とすると考えることができる。」(p.121)
・日本の多文化共生政策の理念―総務省(p.121)
スウェーデンの多文化主義的な統合政策の3つの目標との共通性がある
(①選択の自由/②平等/③協同)

第2節:
1979年 国際人権規約の批准
1981年 難民条約への加入
    …「内外人平等原則」に基づく社会保障法の改正
1985年 女性差別撤廃条約の批准
    …父系血統主義から父母両系血統主義の国籍法に
1990年 改正入管法の施行
    …日系人とその家族に永住類似の在留資格「定住者」
     ※更新が必要・在留活動に制限なし(就労可)
1991年 入管特性法
    …旧植民地出身者とその子孫に「特別永住者」の地位

第3節:
(1)外国人に保障される「権利の性質」を判断する基準を何に求めるのか
(2)憲法と国際人権諸条約との整合性をどのように担保するのか

第4節:
(1)在留資格が細分化されていて、職業の自由の制約が大きい
(2)永住許可の居住要件が帰化の居住要件よりも長く設定されているのはなぜか
「法務局の入国管理局と国籍事務を担当する民事局との調整がなされず、総合的な移民政策(入管政策と統合政策)の担当部局を欠く組織的な要因にあるものと思われる。」(p.133)
(3)届出と生地主義の要素が乏しく、複数国籍防止が原則

第6節:
「2003年に、…『多文化共生社会基本法』の提言を行ったことがある。その研究会の折に、…多文化共生を広く捉えるかどうかを議論したことがある。結局は、マイノリティの幅広い差別禁止の問題は、当時、国会で審議されていた『人権擁護法案』に譲り、『多文化共生社会』の定義は、もっぱら外国人と民族的少数者の社会参画の問題に焦点を当てることにした。この定義が、総務省の推進プランをはじめ、政策用語として使われつつある」(p.144)
 cf) 外国人との共生に関する基本法制研究会『多文化共生社会基本法の提言』2003年(http://www.kisc.meiji.ac.jp/~yamawaki/etc/kihonho.pdf

コメント:
第6章の記述に着目。日本の多文化共生政策がその対象を限定した一つの理由となるかもしれない。政府側に都合のよい解釈となった可能性もある。

[8/18―修正]

2010年8月11日水曜日

宮島喬「『多文化共生』を論じる」

宮島喬「『多文化共生』を論じる(上・下)“文化の違い”の承認とは」『書斎の窓』有斐閣、2009年11月号(No.589)、pp.53-59./2009年12月号(No.590)、pp.57-62.

※岩渕(2010)より芋づる。

引用・要約:
・「制度や権利を多文化に向けて開く」(上、p.54)
・多文化共生は「れっきとした和製語で、国際会議などで使おうとすると、訳語に窮してしまう」(下、p.57)
 ex)Kondo(2008)
・総務省「多文化共生推進プログラム」について、「90年代前半に行われた議論に比べ、外国人や外国につながる人々が固有の文化的要求やアイデンティティの担い手とは捉えられていず、日本社会・文化に適応すべき存在と位置づけられていて、視点の違いを感じさせる」(下、p.59)
・「ローカルシティズンシップ拡大の論は足踏みしているとの感をまぬがれない」(下、p.60)
 ex)帰化を要件としない定住外国人の地方参政権
・「『日本人』のイメージをもっと押し広げ、日本語よりは○○○語のほうが自然といった、出自の異なる、またはハイブリッドな人々をも『同じ日本人』と考えていくこと、この意識の切り替えは日本人自身の課題ではないだろうか。」(下、p.62)

コメント:
・著者が提案する具体的な施策=「母語・母文化保持」、「定住外国人の地方参政権」、「教員採用、その他の地位への登用」など。
・著者の提案するアプローチは、「日本人/外国人」という枠組みを維持する点が限界となるかもしれない。このアプローチの特徴は?

テッサ・モーリス=スズキ『批判的想像力のために』

テッサ・モーリス=スズキ『批判的想像力のために―グローバル化時代の日本』平凡社、2002年.

※岩渕(2010)、塩原(2010)の引用から芋づる。

メモ:
1996~2002年に発表された著者の論文集。9.11についての記述もある。

構成:
Ⅰ 誰が語るのか/Ⅱ 開かれた日本のために/Ⅲ グローバリゼーションとデモクラシー

コメント:
・筆者の「1899年体制」(p.143-148.)に着目。この血統主義に基づく国籍法が日本国民=日本人(民族)という「想像」を常に喚起してきたものといえるのではないか。
・「多国籍企業と国民国家は補完関係にあったのである」(p.176)という記述は、サッセン(1999)と共通している。
・「シティズンシップと多文化主義」(pp.236-238.)ではT.H.マーシャルのシティズンシップ論が見落とした論点として、第4のレベルでのシティズンシップ(文化的シティズンシップ)に言及している。さらに、それが政治論争の鍵となり「多文化主義」(文化的多様性の公認/文化的多様性が富、地位、権力の永続的不平等性の理由や根拠になることを拒否する試み)として知られる政治戦略となったという。

2010年8月9日月曜日

岡本智周「共生教育学が目指すこと」

岡本智周「わたしの提言 共生教育学が目指すこと」『筑波フォーラム』第74号、2006年11月、pp.127-129.

共生社会論(p.128)
・人間の差異を生み出す社会制度に光を当て、今日的状況におけるその制度の妥当性を検討する
・人間のカテゴリの再検討

2つのアプローチ(p.128)
①旧来の人間カテゴリを維持しながら、その意味内容を修正し多様化する
②あるカテゴリ自体が組み直され、相対化/無化される

筆者の立場(p.129)
・①のアプローチは、社会的リスクに対する基本的な対処策には成り得ないのではないか
・カテゴリや制度自体への問い直しがない方策は、問題を解決したかに見えてまた生成させていくマッチポンプになりかねない

筆者の主張(p.129)
・自らが掲げる人間のカテゴリについて自覚的であり、かつその再検討を不断に継続する営みは可能

コメント:
・人間のカテゴリ化に対する2つのアプローチの区別に着目したい。これは、カテゴリ化自体を否定するものではない。あくまで「組み直し」が前提となっており、その際に旧来のカテゴリを用いるのか、それとも新しいカテゴリを創り出すのかの違いである。ここで新しいカテゴリを用いる場合、旧来のカテゴリは相対化/無化される。
・旧来のカテゴリを「無化」した場合には、再びそれが組み直されることになるだろう。
・旧来のカテゴリを「相対化」した場合には、それらのカテゴリの併存状態が続くことになるのだろうか。また、それは多元的な差異の認識を可能にするものとなるのか。
・「表象の政治」と「権利・制度をめぐる政治」の関連をどのように分析するか。

[8/11―コメント追加]

岡本智周「多文化教育と日系アメリカ人のナショナルアイデンティティ」

岡本智周「多文化教育と日系アメリカ人のナショナルアイデンティティ」『筑波教育学研究』第4号、2006年、pp.47-63.

枠組み:
国民国家論におけるナショナリズムの2段階(p.50)
第1次ナショナリズム
 =国民という単位で世界を分断して認識するその認識そのもの(村上泰亮)
第2次ナショナリズム
 =自らが属する特定の国民を尊重する観念および運動(丸山眞男)

「20世紀末において、多文化主義に基づく歴史教育は、それがなおナショナルな枠組みを維持するがために、エスニシティの相対化によってナショナリティそのものを浮かび上がらせる論理を提示する」(p.58)
「社会の構成要素の多様性を十全に表現することを目指す多文化教育の観点からすれば、ナショナリティへの注目に帰結する教育は、本来解決すべき問題を自ら生み出しているという意味で、差別構造のマッチポンプになりかねない。ナショナリティの区別は国内に持ち込まれれば、エスニシティの区別に転化するからである。」(p.59)

関連文献:
この論文で述べられている「国民」像の組み直しの限界について、岡本(2008)では「多元性を称揚する一元性の問題」としてまとめられている。解決の方向性としては、①ナショナルな枠組みそれ自体の解消(ポスト・ナショナル)、②ナショナルな枠組みの徹底的な意識化(メタ認知)が提示されている(pp.120-121.)。

参考)岡本智周『歴史教科書にみるアメリカ―共生社会への道程』学文社(早稲田社会学ブックレット)、2008年.

コメント:
・ここで「第1次ナショナリズム」とされている段階は、「方法論的ナショナリズム」と似ているのではないか…要検討。
・国家というアクターを前提とする政策研究では、どのように方法論的ナショナリズムを回避することができるのか(研究を通じて第1次ナショナリズムを再生産しないようにするために)。
・国家以外のアクターに着目することでその枠組みを相対化することが考えられる?

2010年8月6日金曜日

レジュメのきり方

レジュメをまとめる際に必要なことについて。考えられるいつくかのステップ。(先日、読書会に向けてレジュメの準備をした際、自分の言いたいことが十分にまとめられなかったという反省に基づく…。)


①自分の問いについて考える(Question)
 ・キーワード(主要概念)を見極める
 ・どのような方法で問うのか

②文献・論文を選ぶ(Scanning)
 ・文献執筆の背景について知る
  ―はじめに、あとがき、索引を参照
 ・論文が掲載されている雑誌の特徴について知る
  ―母体となる学会・研究会、編集者、創刊号(趣旨)を参照

③文献・論文を読む(Reading)
 ・著者の主張(問い、目的、結論)とその論拠を押さえる
  ―誰のどのような理論を出発点としているのか(Theory)
  ―概念をどのように定義しているのか(Definition)
  ―理論をどのように擁護あるいは批判しているのか(Logic)
  ―根拠となる資料は何か(Resource)

④自分自身の理解を深める
 ・自分で説明できない概念についての知識を深める
 ・必要な場合は、引用元にあたる

⑤再び自分の問いについて考える
 ・著者の議論のどのような点が興味深かったか、それはなぜか
 ・自分の(これからしようとする)主張との違いはどこか

※授業での発表の場合は①・②が省略される。なぜその文献・論文を読むのかということについて、シラバスや授業の初回で説明がなされるはず。


コメント:
・こう考えてみるとレジュメの作成とは手間のかかること…でもその積み重ね!
・自分の傾向として③と④に力を入れてしまいがち。議論の前提となる基本的な事項についての知識が足りないからだと思われる。
・そうはいっても、やはり⑤までたどり着かないとレジュメとしてまとめたことにはならないだろう…レジュメの作成は「きる」というし!
・レジュメのまとめ方について書こうと思ったのに、終わってみれば読書法(「SQ3R」)に近いものになっている。

2010年8月4日水曜日

大澤真幸『ナショナリズムの由来』

大澤真幸「予告編」『ナショナリズムの由来』講談社、2007年、pp.9-48.

構成:
ゴミとしての芸術/〈帝国〉/国民化・民族化/レーニンのショック/多文化主義の「欺瞞の欺瞞」/アメリカ・ナショナリズム/「笑い」による相対化?/資本主義

コメント:
多文化主義に関する記述がいまいち理解できない。多文化主義と植民地の関係について西川長夫氏が指摘していた点をもう一度参照してみるのがいいのかもしれない。

[9/13-構成追加]

2010年8月2日月曜日

『自治体国際化フォーラム』

●2008年5月
<特集=地域の多文化共生の取り組み>
山脇啓造(明治大学教授)
   「地域における多文化共生の推進に向けて」(pp.2-4.)
田村太郎(多文化共生センター理事)
   「多文化共生社会の形成と地域の取り組みのこれから」(pp.4-5.)

●2007年1月
<特集=多文化共生のあり方と現状>
時澤忠(総務省自治行政局国際室長)
   「国等における多文化共生推進の取組について」(pp.5-7.)
山脇啓造(明治大学教授)
   「地方自治体と多文化共生」(p.8-11.)
村田翼夫(大阪成蹊大学教授)
   「多文化共生の教育」(pp.11-15.)
井口泰(関西学院大学)
   「経済・労働市場の変化と外国人政策の改革」(pp.15-20.)

●2005年5月号
<多文化共生のとびら>
山脇啓造(明治大学教授)
   「二〇〇五年は多文化共生元年?」(pp.34-37.)

●2004年6月号
<国際化の潮流>
宮島喬(立教大学教授)
   「『国際』と『多文化』の間」(pp.16-18.)


コメント:
山脇氏の主張を理解するのに役立つのでは…要検討。

日本における「多文化共生」政策(総務省・内閣府)

2005年6月 総務省「多文化共生の推進に関する研究会」設置
2006年3月 総務省『多文化共生の推進に関する研究会 報告書
         ~地域における多文化共生の推進に向けて~』
2006年3月 総務省自治行政局国際室長
         各都道府県・指定都市外国人住民施策担当部局長宛通知
         「地域における多文化共生推進プランについて」
2006年6月 総務省「多文化共生の推進に関する研究会」(継続)
2007年3月 総務省『多文化共生の推進に関する研究会 報告書2007』
         ・防災ネットワークのあり方
         ・外国人住民への行政サービスの的確な提供のあり方
2008年度 総務省「多文化共生事例集」のとりまとめ
2009年1月 内閣府「定住外国人施策推進室」設置
            「定住外国人支援に関する当面の対策について」
2009年3月 内閣府「定住外国人施策推進会議」設置
2009年4月 内閣府・定住外国人施策推進会議
            「定住外国人支援に関する対策の推進について」
2009年7月 住民基本台帳法の一部を改正する法律
            (8日成立、15日公布、3年以内に施行)
2009年9月 総務省「多文化共生の推進に関する意見交換会」設置
2010年3月 総務省『多文化共生の推進に関する意見交換会 報告書』

総務省『多文化共生の推進に関する研究会 報告書』

総務省『多文化共生の推進に関する研究会 報告書
~地域における多文化共生の推進に向けて~』2006年3月

※2005年6月「多文化共生の推進に関する研究会」設置(総務省)

構成:
はじめに/第1章 総論/第2章 多文化共生推進プログラムの検討/おわりに

引用:
・地域における多文化共生の定義
「国籍や民族などの異なる人々が、互いの文化的ちがいを認め合い、対等な関係を築こうとしながら、地域社会の構成員として共に生きていくこと」(p.5)
・検討対象
「定住傾向にあるが日本語によるコミュニケーション能力を十分に有しない外国人住民に関わる課題」(p.6)
・基本的考え方
「外国人住民も地方自治法上の『住民』であり、また、『国際人権規約』、『人種差別撤廃条約』等の要請から、基本的には日本人と同等の行政サービスを受けられるようにすることが求められる。」(p.10)
・支援の柱(第2章)
①コミュニケーション支援(情報の多言語化、日本語および日本社会に関する学習)
②生活支援(居住、教育、労働環境、医療・保険・福祉、防災)
③多文化共生の地域づくり(地域社会に対する意識啓発、外国人住民の自立と社会参画)
・企業の役割(pp.45-46.)
企業の社会的責任(CSR)の履行、企業に求められる具体的対応(労働関係法令等の遵守)
・研究会構成員(研究者)
山脇啓造氏(明治大学商学部教授)
柏崎千佳子氏(慶應義塾大学経済学部助教授)

コメント:
・「多文化共生」として日本人住民と外国人住民の共生を、「外国人住民」としてとりわけニューカマー(主として1980年以降に日本にやってきた外国籍の人々)を想定した報告書。
・ニューカマーは不安定な労働環境にいる場合が多いため、企業の社会的責任について言及している点は重要だろう。企業内での「多文化共生」についても言及があってもよかったのではないか。
・地域における多文化共生の定義にみる「対等な関係」はどのようなものか。報告書を見る限り、それは「基本的には日本人と同等の行政サービスを受けられるようにすること」と言い換えられているようにみえる。
・報告書に対する批判については岩渕(2010)を参照予定。
・山脇氏と柏崎氏の基本的主張については今後の課題。

2010年7月29日木曜日

岩渕功一「多文化共生における〈文化〉の問い」

岩渕功一「多文化社会・日本における〈文化〉の問い」(pp.9-34.)
岩渕功一編著『多文化社会の<文化>を問う―共生/コミュニティ/メディア』青弓社、2010年.

※読書会での発表に向けて。

構成:
はじめに/1 多文化主義の退場と多文化共生の台頭/2 多文化共生のうさんくささ/3 多文化主義なき多文化共生/4 本書の構成―多文化な問いをめぐって

要旨:
多文化主義を掲げてきた国においてその終焉が語られるようになる一方で、日本においては「多文化共生」が政策論において使用されるようになった。このような状況の中で〈文化〉はどのように語られているのか、またどのように語られるべきなのか。

コメント:
・著者は「多文化・市民アプローチ」のようなものを提唱しているように思われる。それは、現在の政策の前提となっている「地域・住民アプローチ」の限界を見据えているからであろう。
・ただし「市民としての平等に扱う」ということの内実が見えにくかった。それは「日本を多文化社会として公式に認める」という記述においても同様である。
・イエン・アンの「表象の政治」と「存在の政治」という区別は興味深い。問題をどのレベルで論じるかに関わってくる。ミクロ―マクロと置き換えることができるかもしれない。また、松宮・山本の「対面的相互作用」「意識」「構造的平等」という区別を参照すれば、アンの区別に加えて「権利をめぐる政治」を加えることができるかもしれない。
・テッサ・モーリス=スズキを引きながら述べていた「1899年体制」に注目する必要があるだろう。シティズンシップ論の文脈で論じることは可能。

[8/11―コメント追加]

2010年7月28日水曜日

塩原良和「『連帯としての多文化共生』は可能か?」

塩原良和「『連帯としての多文化共生』は可能か?」(pp.63-85.)
岩渕功一編著『多文化社会の<文化>を問う―共生/コミュニティ/メディア』青弓社、2010年.

※前回の読書会での課題文献の再読。

構成:
はじめに/1 福祉多文化主義と新自由主義的「改革」/2 「多文化共生」の制度化への批判の意図せざる帰結/3 本質主義批判の意図せざる帰結/4 対等な関係性づくりのプロセスとしての「多文化共生」/5 多文化共生に向けた「協働」/6 「協働」から「連帯」へ?/おわりに

要約:
日本における「多文化共生」政策・言説批判(すなわち、エスニック・コミュニティの制度化と本質主義化への批判)は、新自由主義的な改革と親和的である。そのため、制度化や本質主義化への批判的思考を前提としながらも、エスニック・マイノリティのエンパワーメントを可能にする施策のあり方を模索すべきである。

コメント:
・制度化と本質主義化がどのような相互作用にあるのかが論じられていなかった。この部分は行政(政策)対応の避けがたい課題だと思われる。この点をどのように克服していくのか。行政との距離の取り方の問題?
・H氏によればこの著者は「多文化主義者」に分類される。論者によるアプローチの違いを図式化しておく必要があるかも。
・「(多)文化的市民権」に関する論理展開に注目。「文化は経済・社会構造と切り離して考えることはできない。なぜなら、文化には個人がそれを活用することで経済・社会的上昇を達成するための資源という側面があるからである。そのため、ある社会での言語・習慣・価値規範・信仰などの文化的価値が平等に承認されていなければ、それを経済・社会的な資源として活用する可能性も不平等になる。したがってエスニック・マイノリティ集団に対する社会経済的不平等の是正は、そうしたマイノリティ集団の文化の平等な承認、すなわち(多)文化的市民権の保障と密接不可分である。」(p.65)ここでは、「エスニック・マイノリティ集団」が成立する時点で、ある社会(=国家)は文化に対して中立ではないという前提がある。

[7/28―構成追加、要約修正]
[8/11―コメント追加]

2010年7月26日月曜日

梅棹忠夫『知的生産の技術』

梅棹忠夫『知的生産の技術』(岩波新書F93)、岩波書店、1969年。

構成:
はじめに/1 発見の手帳/2 ノートからカードへ/3 カードとそのつかいかた/4 きりぬきと規格化/5 整理と事務/6 読書/7 ペンからタイプライターへ/8 手紙/9 日記と記録/10 原稿/11 文章/おわりに

引用:
「研究生活における基礎的技術みたいなものは、研究者のあいだでも、意外に議論されることがないのである。」(p.6)
「この本は、はじめから個人を対象にしてかいている。…知的生産は、どこまでも個人においておこなわれるもである。」(p.19)
「整理は、機能の秩序の問題であり、整頓は、形式の秩序の問題である。やってみると、整頓よりも整理のほうが、だいぶんむつかしい。」(p.81)
「整理や事務のシステムをととのえるのは、『時間』がほしいからでなく、生活の『秩序としずけさ』がほしいからである。」(p.95)
「よみおわって、読書ノートとして何をかくのか。…わたしにとって『おもしろい』ことがらだけであって、著者にとって『だいじな』ところは、いっさいかかない。」(p.113)
「文章をかくためには、まず、かくべき内容をかためなければならないのだ。」(p.201)

コメント:
知的生産に関わる情報処理の問題は今も昔も変わらないのですね…。もちろん、その質は変わっているのでしょうが、一人の人ができる情報処理に限界があることは事実。それをどのように積み重ねていくのか。このような技術(スキル)についての情報共有ができていないのは確かにもったいない。経験の蓄積がない。一から学び直しになってしまう。もちろん、そのような技術を知っていることと、それを地道に実行できるのかは別の問題ですけれど。「研究生活における基礎的技術」のようなものの定式化を行っていく必要があるのでは?

[7/28―構成&引用追加、コメント修正]

2010年7月13日火曜日

無理やり名前をつけてみる

現在自分が取り組んでいる研究について、もっともらしい分類名(分野)を考えてみる。とりあえず今考えつくのは「教育政策の社会学」かなと。「教育政治学」というワードも思い浮かんだけれど、これはもっと政治学よりになるような気がしている。いつもの研究上のアイデンティティ・クライシス。

2010年7月12日月曜日

ものさし

大人になりたい。人にものを言う前に、自分がきちっとやる。一個の人間として向き合うようにする。わたしは未熟だ。自分のなかのポジティブ/ネガティブ感情をどうコントロールするのか。まだ直視できないでいる状況。自分の、ものさしがほしい。

研究室=「幻想の共同体」?

研究室という集団の特質は何なのだろう。理系みたいに共同研究するわけでもなし。まったく個別の作業が進んでいる、いわゆる文系の研究室。ただ、同じ部屋にいるだけ?同じ研究会に出席するだけ?事象としてはそれだけだが、それ以外に共有するものは存在するのか?(思想?歴史?)研究者としての「自立」について考える今日この頃。

参院選&滋賀知事選

昨日選挙でした。出口調査で大勢って判明するものなのですね。そういう意味では20時にすでにおおまかな結果は出ていたような。でも、テレビ各局ごとに把握の仕方は違っていて、それはおもしろかった。

政治家の議論の仕方にもルールがあるんだろうな。とある番組で共産党の人がやり込められていたけれど、聞く耳持たず、ではいけないと思う。現状認識がどのように違っているのか、未来への展望がどのように違っているのか、いちいち明らかにしてほしいとも思う。選挙時くらいしか、政治番組見ない人もいるだろうし。かくいう私も常にアンテナを張っているわけでもない。

そして、投票内容については親しい間柄においてもお互いにあまり話さない。何ででしょうね…。個人の主義主張は「内面」の自由として保護されるべしという考え方があるのかな?自分も出さないし、相手も出さない。直接ぶつけられることのない主義主張たち。「議論」に対する拒否感があるのでしょうか。日常の素朴な直感も重要だと思うのです。もちろん、大局的な見方も。

あとは、個人が政治に関わる限界も認識すべきなのかもしれない。国会の、政府のすべての動きについて情報提示されても、それをかみ砕ける人がどれほどいるのか。

あと、同日に滋賀知事選もありました。嘉田氏が再選。なんとなく応援したくなる、嘉田さん。琵琶湖に恋する人に悪い人はいない気がする(笑)。明らかな滋賀ひいき、琵琶湖ひいきです。でも住みよいところになってほしい。

2010年7月8日木曜日

組織は手段か、目的か

組織のあり方について。

目的があってこその、組織。何のために組織化するのか、つねに問い直す必要がある。組織の中をうまく回すために組織化するのではない。必要となる、理念。つねに立ち返るところ。

その一方で、いったん組織としての目標が決まった後の運営のしかたは別の問題では?どのようなやり方がありうるのか。理念には賛同するが、やり方は気に食わないという場合。それも含めて理念か、運営のしかたが悪いのか。

でも運営のしかたに気を取られると、組織が目的化してしまう可能性も。つねに気をつけなければいけない。

【備忘】研究者=知識人

院生という立場。
研究室という幻想。

研究者であること。

卓越性という協働性。
独立した思考と論理展開。
つねにアマチュアであること。
つねに手続きを問い直すこと。
誰に向かって、何を語るのか。
自分自身の立ち位置に自覚的であること。

2010年6月4日金曜日

M先生の授業

現在受講しているM先生の授業。学校組織・経営論の基本概念がテーマ。すごく興味深い。けれども、難!

とりわけ前回の授業。「作動」「環境」「予期」などなど…なんか難しい。もう少し身近な言葉で語ってもらいたい…とは思うけれど、わたしが追いつくしかないのでしょう。(Tさんはちゃんと質問していたし。追いついている人は追いついているのです。)ルーマンにはもともと詳しくないのでその時点で無理はあるのですが。

その中で興味をもったワイクさん。『組織化の社会心理学』や『センスメーキングインオーガニゼーション』という本を書いていらっしゃる。(しかし、後者はなぜタイトル訳されなかったんでしょうね?『組織における意味形成』でもよさそう。)Amazonの書評を見たけれど、この方、「複雑系」の方らしい。院生仲間から「M先生は今複雑系に取り組んでいらっしゃる」と聞いたことがある。このワイクさんも、キーパーソンなのですね。

複雑系。気になる。

首相の交代

今日、菅さんが首相になったようです。

政治はいろいろな利害が絡みすぎると本当に身動きとれなくなりそう。動くためにどう調節するのか。利害の優先順位付けと、でもそれを流動化させること。

いろいろな手腕が問われそう。難しい。

2010年6月2日水曜日

首相の辞任

今朝、メールチェックをしようとしたら「首相辞任」という文字が。なんてこったい…。いつのことかと思ったら今日の午前中だったらしい。政治家の「責任をとる」というのは辞任という形が一番妥当なのか?それまで積み上げてきたものは??もちろん、首相としてものすごい圧力の中で仕事をしているのだろう。自分の思う通りにいかないこともままあるはずだけど。

普天間の問題については、世論に見える形で問いかけがなされたのはすごく重要なことだと思う。ずっと誰も「国民」にみえるかたちで手をつけなかったのだから(自民党の時代にも方向性は模索されていたけれど、これほど大きな「国民」的な議論にはならなかった)。だけれども基地問題であれ、安全保障であれ、大きな枠組みについて問い直すエネルギーをもっていなかったようであること(新聞からの情報)はすごく残念。

だけれど、そのことを首相ひとりの責任に帰すこともできないだろう。内田樹さんの日記にも書かれています(mixiで「うちだ たつる」で検索すれば出てきます)。

研究のもつ意味

暴力、威嚇、権威などの手段ではなく、論理で主張するということ。

その限界を認識する必要があるだろう。でも、その意義もきっとある。

学問の作法②

日本での(教育学)研究は、そういう点が問われる気がする。価値の問題を含むから?政治学も同じ?難しい。

海外の研究者は、どのようにこの点を回避するのか?さっき言ったように、対象をある程度突き放す?

確か、イギリスにいた時、中途半端な立場を取らないようにするということが言われていた。バランスをとる思考は論述しにくい、と。これは一つの学問の作法(テクニック?)なのかもしれない。それが学問に求められていること。

一方で、日本では、中立に努めよという要請が強い気がする。自分を隠すというか。資料に語らせる、と教えられた。

どちらもそれなりに筋が通っていると思う。どちらをより重視するのか。なぜ、そうするのか。

自分の行為や主張に常に自覚的でいるということは非常に大変…。

倫理的・道徳的に問われる

問題と向き合う自分。

倫理的?あるいは道徳的に問われている気がする。

対象をある程度突き放すことが必要なのだろうか。

そうすることで、伝わるもの、伝わらないもの。

2010年6月1日火曜日

学問の作法

書き方の問題です。

論文とはどういうものか?

とある知り合いの人には、日本の論文は盛り込まれている情報が多いと言われた(そういうものが評価されるということ)。その他にも、身体や骨はなくとも「手」を細かく描写すれば足りるとされる、など。

つまりは、情報提供が主流ということか?「論じてはいない」ということか?その必要性を感じていないということか?なんのための学術論文なのか?とりわけ、社会科学において。

昨日の話と繋がってくるかなぁ?

2010年5月31日月曜日

もやもやに耐えられるか?

最近の課題。ジレンマの場所。

物事を割り切って考えることって、すっごくすっきりする。いろいろ単純化している。でも、思考停止。
物事を割り切って考えられないって、すごくもやもやする。ぜんぜん単純化できない。結局、思考継続。

本当は、本当は、すごくすっきりしたいんです!だって、「白/黒」や「善/悪」がはっきりしているとなんとなく安心しません?安心ですよね?すっきり生きたい欲望が強い。これは本能でしょうか?

でも、実際の世の中はそんな単純なものではない!そして、割り切った思考に別様の可能性を開くことというのが、わたしが研究を通じてでやりたいこと(別の単純化にもなったりして…要注意!)。

そのもやもや状態にわたし自身が耐えられるのかどうか。

試されてるのは、自分。

研究者の役割

研究者の役割について小熊さんが言っていたこと。

「人びとを絶対的真理によって指導することではなく、人びとに自由度をもたらす選択肢の知識を提供することが社会科学に携わる者の任務だと考える」
小熊英二『<日本人>の境界』新曜社、1998年、764頁。

共感します。

2010年5月27日木曜日

研究方法って・・・

研究方法って、いまだによくわかっていない。

「量的研究か、質的研究か?」

と問われれば

「質的研究です」と答えることはできる。


問題はそこから。

耳慣れた言葉でいえば、「政策分析」。
でも政策分析って一体なんだ??

わたしがやっているのは政治学どっぷりではない。

Document Analysis(文書分析)やContent Analysis(内容分析)という言葉はあるようだけど、それが当てはまるのかもわからない。

社会学の分野での政策分析が一番イメージに近い感じ。
「政治社会学(Political Sociology)」という分野もあるようだけど。

うむむ。

2010年5月26日水曜日

【連合王国】連立政府の方針:移民

The Coalition: our programme for government

Immigration

移民はわたしたちの文化を豊かにし、経済を強化してきた。しかし、人々がそのシステムを信頼するためには、移民は統制されなければならない。また結束(cohesion)を確かなものにし、公的サービスを保証するために、移民に上限を設け、非EU移民の数を削減する必要がある。

・We will introduce an annual limit on the number of non-EU economic migrants admitted into the UK to live and work. We will consider jointly the mechanism for implementing the limit. (非EU経済移民の数の年次制限の導入)

・We will end the detention of children for immigration purposes. (子どもの拘留の廃止)

・We will create a dedicated Border Police Force, as part of a refocused Serious Organised Crime Agency, to enhance national security, improve immigration controls and crack down on the trafficking of people, weapons and drugs. We will work with police forces to strengthen arrangements to deal with serious crime and other cross-boundary policing challenges, and extend collaboration between forces to deliver better value for money. (国境警備)

・We support E-borders and will reintroduce exit checks. (ヨーロッパの境界/出国審査の再導入)

・We will apply transitional controls as a matter of course in the future for all new EU Member States. (国家を越えた統制/EU)

・We will introduce new measures to minimise abuse of the immigration system, for example via student routes, and will tackle human trafficking as a priority. (移民システム濫用の縮減)

・We will explore new ways to improve the current asylum system to speed up the processing of applications. (庇護希望者システムの改善)

【連合王国】連立政府の方針:学校

The Coalition: our programme for government

School

近年拡大している教育的不平等を是正するために、また保護者や児童・生徒によい学校を選択するより大きな権限を与えるために、現在の学校システムを改革する必要があると考える。教室における規律(discipline)の高い基準、強固な(robust)基準、そして質の高い教授を確かなものとしたい。また、新たな学校をつくることによって教育システムを改善するために協力する保護者、コミュニティ集団、その他の人々を政府は援助すべきであると考える。

[以下、17項目が列挙されている。]

・わたしたちは次のような学校改革を推進する。保護者の要求に応えるように、公的な学校システムに新しい供給者が参入できる;すべての学校がカリキュラムをより自由に設定する;すべての学校が適切に責任を負う。

・We will fund a significant premium for disadvantaged pupils from outside the schools budget by reductions in spending elsewhere. (不利な子どもたち)

・We will give parents, teachers, charities and local communities the chance to set up new schools, as part of our plans to allow new providers to enter the state school system in response to parental demand. (新しい供給者による新しい学校)

・We will support Teach First, create Teach Now to build on the Graduate Teacher Programme, and seek other ways to improve the quality of the teaching profession. (教員養成、研修)

・We will reform the existing rigid national pay and conditions rules to give schools greater freedoms to pay good teachers more and deal with poor performance. (教員給与)

・We will help schools tackle bullying in schools, especially homophobic bullying. (いじめ問題)

・We will simplify the regulation of standards in education and target inspection on areas of failure. (教育水準の簡素化)

・We will give anonymity to teachers accused by pupils and take other measures to protect against false accusations. (教員の保護)

・We will seek to attract more top science and maths graduates to be teachers. (教員)

・We will publish performance data on educational providers, as well as past exam papers. (成績データの公表)

・We will create more flexibility in the exams systems so that state schools can offer qualifications like the IGCSE. (試験システムの柔軟性)

・We will reform league tables so that schools are able to focus on, and demonstrate, the progress of children of all abilities. (成績一覧表の改訂)

・We will give heads and teachers the powers they need to ensure discipline in the classroom and promote good behaviour. (規律)

・We believe the most vulnerable children deserve the very highest quality of care. We will improve diagnostic assessment for schoolchildren, prevent the unnecessary closure of special schools, and remove the bias towards inclusion. (弱い立場にある子ども/インクルージョン)

・We will improve the quality of vocational education, including increasing flexibility for 14–19 year olds and creating new Technical Academies as part of our plans to diversify schools provision. (職業教育)

・We will keep external assessment, but will review how Key Stage 2 tests operate in future. (外部評価/キーステージ2の試験)

・We will ensure that all new Academies follow an inclusive admissions policy. We will work with faith groups to enable more faith schools and facilitate inclusive admissions policies in as many of these schools as possible. (アカデミー)

【連合王国】連立政府の方針

「The Coalition: our programme for government」(http://programmeforgovernment.hmg.gov.uk/

「このウェブサイトは『連立』のオンライン版である。この文書は、今後5年間にわたる連立政府の計画を明らかにしたものである。これらの計画は、自由、公正、責任という価値によって、また国益をめざすという共有の願いによって導かれたものである。わたしたちは共に働くことによって、困難な時からよりよい日々へとこの国を変えていけると確信している。
 わたしたちはこの計画によって、基本原理、変革する政府、より強固な社会、より小さな国家と権力、そしてすべての市民に責任をもたらすと考える。」

【連合王国】教育省のニュース

5月13日(木)
Michael Gove MPが教育大臣(Secretary of State for Education)に就任。

5月18日(火)
予算編成について教育省がコメント。
「政府は秋に総合的な予算見直しを行う。」

5月20日(木)
連立に関する文書を発表。
「The Coalition: our programme for government」(http://www.hmg.gov.uk/

5月24日(月)
シュア・スタートと16–19歳の教育の予算は2010-11においては確保されるだろう、と政府がコメント。
「年間£670 million(6億7000万)の削減は、£156 billion(1560億)の赤字を削減するために有効である。」

2010年5月20日木曜日

組織化する困難

人々を組織化するというのには、多大なエネルギーが必要だと思います。維持するのはとても大変。でも、やっぱり一人じゃできないことができたり、すごい力を発揮したりする。

いったい誰がそのエネルギーを割くのか?
誰がそれを維持するのか?

2010年5月15日土曜日

【連合王国】新内閣発足

覚書。

5月6日
 総選挙により保守党が第1党、労働党が第2党、自由民主党が第3党となる。
  ※連立に向けた協議開始。

5月11日
 キャメロン氏が首相に就任。
  ※保守党の政権復帰は13年ぶり(1997年から労働党政権)。
  ※連立政権の発足は第2次大戦時以来!

5月12日
 新内閣発足。

 教育大臣(Secretary of State for Education)
  Rt Hon Michael Gove MP
 学校担当副大臣(Minister of State for Schools)
  Nick Gibb MP
 子ども・家庭担当副大臣(Minister of State for Children and Families)
  Sarah Teather MP

5月13日
 教育省(Department for Education)に改組。
 新しいウェブサイトの公開。ツイッターも展開中。

2010年5月10日月曜日

関係のつくり方

人と人との関係って、本当に不思議だと思う今日この頃。いったい何で成り立っているのでしょう?

TOEFLのテスト受けた時に2つの関係性に言及されていました。

ひとつは、感情で結びついているもの。
もうひとつは、目的で結びついているもの。

関係性は、ひとつめでは目的であり、ふたつめでは手段になるという。
そして目的で結びついた関係から、感情で結びついた関係にもなるという。

ひとつめは家族関係や友人関係が代表的でしょうか。
ふたつめは会社や組織的な集団にみられますかね。

どちらが強固なのでしょう。やはり感情?

2010年5月8日土曜日

「学術スキル」なるもの

2010年の年明けに3か月ほど海外に滞在する機会を得ました。春学期の間大学院の授業を聴講し、その他学内のいろいろな催しに顔を出しました。その中で感じたこと。

研究を進めていく上での「学術スキル」のようなものが明示されていること。一方で、日本の(とまで一般化できるかどうかは極めて怪しいですが)大学院ではそれほど明示されていないのではないか、ということ。

これは現地の大学の「スタディー・スキル・ワークショップ」に参加して感じたことです。文献検索の方法、リーディングの仕方、ノートの取り方、エッセイの書き方、論文引用の仕方、マインド・マッピング、プレゼンの仕方などなどがテーマでした。そのワークショップを担当する専門の方がいることにも驚きました。

日本では研究会や授業で諸先生方・諸先輩方の発言から学ぶということはあります。が、背中を見て学べなんですよね、基本的に。両者とも言ってることは結局同じだったりするんですが。でも、ここを押さえておけば、という「秘訣」はあると思うのです。そこをわかりやすく伝えるものだと思います。

大学で学ぶべきなのは、このようなスキルなのではないのでしょうか?もっと明示すればいいのに。減るものでもないし。

2010年5月7日金曜日

「国際競争力」って?

最近テレビで「日本の革新的な技術が世界に持っていかれてしまう」という論調の番組をよく見る気がする。でも国家が技術を守ることでどれほどの恩恵が国民にもたらされるというのか?そもそも国家が技術を守ることなんてできるのか?

以前に「国際競争力」という考え方を批判する記事を前にブログで見た気がして再検索。このページだったかは忘れてしまったが、このような感じだった気がする。

池田信夫 blog(旧館):国際競争力という危険な妄想
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/6cc6d43a11b0e921c3553e1c94331afd

そこで言及されているのは、
ポール・クルーグマン「競争力という危険な妄想(Competitiveness: A Dangerous Obsession)」(Foreign Affairs, 1994)という論文。(一部日本語で公開しているサイトがあります。本文もPDFで公開されているよう。うまくリンク貼れないので検索してみてください!)

論文自体は1994年のもので、15年前ほどのものになってしまうのだけれど、今はどのような議論になっているのだろう。

企業はどの程度国家に守られているのだろうか?

2010年5月3日月曜日

e-learning!

4月から「NHK ハーバード白熱教室」という番組が放送されています。(http://www.nhk.or.jp/harvard/

<番組概要>
創立1636年、アメリカ建国よりも古いハーバード大学の歴史上、履修学生の数が最高記録を更新した授業がある。政治哲学のマイケル・サンデル教授の授業「Justice(正義)」である。大学の劇場でもある大教室は、毎回1000人を超える学生がぎっしり埋まる。あまりの人気ぶりにハーバード大学では、授業非公開という原則を覆し、この授業の公開に踏み切った。


この番組は情報化と研究の役割について大きなインパクトを持っていると思う。
設備さえあれば誰でもハーバードの有名な教授の授業を視聴することができるんですよ?すごくないですか??

「あまりの人気ぶり」⇒「授業公開」という流れはよくわからないですが。
…どんなねらいがあるんでしょうね。

ともかく、ハーバード大学に行かなくても著名な教授の授業を受けることができるのです!

けれどもちろん単位はもらえないし、レポートも見てもらえないし、
リアルタイムのディスカッションにも参加できない。

では一体誰がこの番組にひきつけられるのか?
・「正義」に興味がある。
・サンデル教授に興味がある。
・ハーバードでの授業に興味がある。
・大規模な大学の授業をどのように進めるのかに興味がある。

その他にはどうでしょう?

立ち止まる人、歩き続ける人

研究の役割や研究者の役割についてよく考える。
何のために研究しているのか??

とりあえず、現時点でのわたしの暫定的な回答。
「議論を開くこと」または「議論を開く手伝いをすること」。

研究者は、意識的に一歩の歩みをとめて考えることを求められている立場にいると思う。
現実のもっと別様のありかたを考えること。立ち止まることのできる人。

普段の日常生活なんて意思決定の繰り返し。
その場その場で判断を求められている。歩き続けるしかない、本当は。

その歩みに迷いが疑問が生じたときに「別様のありかた」を示せるかどうか。
そのときが研究者の出番だと思う。

研究者はいろいろな事柄を知っていたり、
物事をより深く理解しようとするけれども、だから「偉い」のではない。
そうすることを求められ、許されているからできること。

Information Technology

情報化がどんどん進めば、どんな研究が現れるだろう?

今でさえいろいろなデータベースがあって論文検索なんて瞬時にできる。
大学院に入った頃にはもうそれが普通だったけれど、
もう少し長いスパンでみれば、すごいスピードなんだと思う。

でも溢れ出ている情報の管理は大変…。
そのあたりの管理の「秘訣」をもっと共有していければいいのになぁ。

情報発信の可能性はすごく広がっていると思う!
ブログで積極的に情報を発信している先生もいる。
大学を介さずとも学べる環境がそこにはあるのかもしれない。

一方で、アナログなやり方もすごく重要だと思う。
人間にはできることに限界があるし。
無理せず、「いい加減」で付き合っていきたい。