2011年7月19日火曜日

福田誠治『フィンランドは教師の育て方がすごい』

福田誠治『フィンランドは教師の育て方がすごい』亜紀書房、2009年.

はじめに/第1章 フィンランドの教師の一日/第2章 フィンランドの教育の特徴とは/第3章 カリキュラムが変わる、教育学が変わる/第4章 探究的教師とは―フィンランドの教師養成制度/第5章 OECDとEUの教育観の転換

要約:
本書は、フィンランドの学力の高さを支える要因のひとつとなっている教師に着目し、その背後に教師の活動を支える教育哲学と教育行政が存在していることを指摘している。どちらかというと、後者のうちの教育哲学により注意を促しているように思われる。「分かれ道は、教育、授業、知識に関する解釈が日本とフィンランドではまったく異なるという教育哲学の違いにある」(p.49)。その転換点は、1994年『国家カリキュラム』にみいだせるという(pp.29-30; 65-66; 72-75; 80-81.)。ここでは、教える教育から学びの支援へと教育の概念が変化した(p.29; 72; 81.)。「教育とは、学び方を教える、知的好奇心や批判的な疑問を育てる、多様で幅広い答えを見つけられるようになること」(p.81.)を意味するようになったのである。そして、社会構成主義がこの変化を支えているという(pp.80-85.)。
実際には、「教師は共通の基礎となるべき知識・技能を教科書に沿って教えていくものの、テストによって競争させるなどの方法で勉強を強制したりはせず、個人作業を重視して、教師が一人ひとりに分かる授業を相違・工夫しながら教育を実現しているという、古い方法と新しい学力観との不思議なバランスが成立している」という(p.119)。このことは本書の第4章で紹介されている教育実習の授業例にあらわれているように思われる。

疑問:
・構成主義と社会構成主義について(pp.80-84.)
個人の文脈を重視した知識の構成とそれを社会的なものにするということがどのように架橋されるのだろうか?理念としては後者、実態としては前者に力点が置かれているように感じた。

引用:
印象的だったのは、以下の記述。
「フィンランドが時代を読み切っていることは確かだ。それでもなおあえて言えば、それが子どもを引き上げる教育でなく押し上げる教育だとしても、子どもたち自身にとっては『しんどい』ことなのだ。他人のせいにでいないということは、逃げ場のないということである」(p.50)。