2011年10月27日木曜日

研究することと、そうではないことを考えてみる

・研究することと、知識が豊富であることは同じではない。(すべての事例を調査すればいいという訳ではない。)

・研究目的と関連のない根拠の提示は、何も説明していないことと同じである。《類似》研究目的と関連のない情報の提示は、読み手の思考の妨げとなるだけである。(雑多な情報をすべて提示すればいいという訳ではない。情報の引き算を心がけよう。)

・研究することは「現実」を批判的に考察するが、否定するわけではない。(個人的には、人びとの現実に寄り添わない研究は聞く耳を持たれないと思う。単なる価値の押し付けにしかならない気がする。「なぜ、あなたがそれを言うのでしょう。」)

・問題意識を持つことと、研究上の問題(課題)設定を行うことは同じではない。(この点については議論があるかもしれない。以下同様。)

・研究することが、問題(とされるもの)の解決に直接的に寄与するわけではない。(直接的に寄与したいのであれば、研究という行為は迂遠である。他のアプローチをお勧めしたい。)

・最後に、中国のことわざ:「授人以魚 不如授人以漁」

2011年10月20日木曜日

『共生と希望の教育学』合評会

『共生と希望の教育学』の合評会がFD(Fucalty Development=大学における研究・教育の向上・改善)の一環として開催されました。この本にはわたしも共著者として参加しています。このうちの1章を担当させていただきました。本を書くということ自体が初めての経験でしたが、今回の合評会はテキストを読まれる側として参加する(自分の書いたものが批評を受ける)初めての場となりました。

3名の先生方から各章について、また本書全体についての批評をいただきました。今回の批評はそれぞれ視点が違っていました。例えば、自分の研究課題に引きつけてのコメント、一冊の本として(各章については一つの論考として)みた場合のコメント、本作りのプロセス自体に対するコメント、というものです。

コメントを聞きながら思ったのは、自分の本(文章)が読まれるというのは、書き手を離れて解釈されるということなんだなと。こんな当たり前のことなのですが、すごく新鮮な経験でした。

目の前に「人(わたし)」はいるのです。けれども、読まれているのは「テキスト」なのです。「研究の批判は、人格の批判ではない」とはよく言われることですが、それを身をもって実感しました。「あぁ、こういうことなんだな」と妙に腑に落ちたのです。

問われているのは、論述の一貫性であり、妥当性です。それを書いた人はいるのだけれど、もうその人の手を離れてしまっているものになってしまったのです。あの子は、旅立ってしまったのです(笑)。

すごく貴重な経験となった今日のFD。開催の段取りをしてくださった皆さまに感謝!です。

この本(『共生と希望の教育学』)について気になった方はこちら。
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/dspace/handle/2241/113652

2011年10月10日月曜日

「大学院生学際研究フォーラム2011」

本日、学祭で行われた学術企画「大学院生学際研究フォーラム2011」(院生プレゼンバトル)に参加してきました。この企画の趣旨は「異分野の方にも分かりやすく自分の研究テーマを伝える」というものです。

今回は6名の院生の方の発表を聞きましたが、どのプレゼンテーションも迫力があって素晴らしいものでした(発表15分、質疑5分)。

とりわけ最優秀賞に輝いた方のプレゼンはまるで舞台での演技をみているようで、完全にその世界に引き込まれました。声の出し方、間のとり方、スライドの構成、そして何よりもメッセージがひとつに絞られていたのが印象的でした。(「スティーブ・ジョブズのようだった」というコメントもありました。)欲をいえば、研究内容に関してもう少し丁寧な解説があってもよかったかなと思います。

以下は何点か気づいた点のメモ。

●プレゼンのスキルと研究の内容のバランス
・どちらもバランスよく配合するのは至難の業…。今回の発表は「プレゼン>研究」と「プレゼン<研究」の2タイプに分かれるような気がしました。今回評価されたのは、どちらかというと「プレゼン>研究」タイプの発表でした。研究のオリジナリティーを短時間でアピールするのは難しいですね…。

●研究分野自体のおもしろさ
・自分の研究を発表するにあたって、導入部分で自分の研究が属すると思われる研究分野の特色を説明するのは効果的だと思いました。今回の評価の観点には入っていませんでしたが、この視点を入れたプレゼンは評価が高かったように思います。研究の位置づけが分かりやすくなるので、全体の理解度が増します。その分野がどのような知見を集積しているのか…いわゆる先行研究のレビューにあたるのかもしれませんね。

●人文科学・社会科学研究の少なさ
・今回は情報工学などの研究が多く、いわゆる文系の発表は少なかったです。プレゼンを聞きながら、自分の研究を15分でプレゼンしてほしいと言われたらどうするだろう、とずっと考えていました。そうすると、やはりなかなか難しいのですね…。通常は、専門家以外の聞き手を意識せず研究しているということになりますね。

●学祭でアピールすることの意味
・当初、なぜわざわざ学祭で研究企画をやるのか、疑問に思う節がありました。それよりも普段からできるような交流の方が重要ではないかと思っていました。しかし今回参加させてもらって、高校生や他大学から来た方のコメントを拝聴して「外からの目」というものを意識する必要があると感じました。もちろん、外見ばかり意識しすぎて中身がないというのは問題ですが…。大学内だけではなく、また専門家集団ではない人々と研究に関する知見を交換することの重要性を感じました。この点については、後々もう少しうまく説明したいです。

2011年10月4日火曜日

堀井憲一郎『いますぐ書け、の文章法』

堀井憲一郎『いますぐ書け、の文章法』筑摩書房(ちくま新書)、2011年.

その文章を「いったい誰に向けて書くのか?」。文章を書くときに必要な姿勢(意識)について詳述した書。雑誌記事に関するものだが、論文にも当てはまるところは多い。読み手を想定しない文章の「ひとりよがり」がとことん指摘されている。例示がわかりやすく、またひらがなが多く読みやすい本でした。何よりも勇気づけられる。今書いているもの、あるいは書かなければいけないもの。それを誰に、どうやって届けようかと思案することの重要性。誰かに「届ける」ために文章を書く、ということに気づかせてくれる一冊。

…と、書評(?)風。

2011年9月26日月曜日

4大学ジョイント・セミナー

23日~25日の3連休で「4大学ジョイント・セミナー」に参加してきました。

このセミナーは今年で2回目。4つの大学で集まって、院生同士がお互いの研究についてディスカッションをしました。といっても、そんなに堅苦しいものではなく…それぞれが研究を進める上で抱える悩みを共有したり、院生同士の研究ネットワークを広げることも重要な目的です。他大の院生の方と話す中ですごく刺激を受けました。

また今回は東北大学での開催ということで、東北の被災地の様子を見てくることも(自分の!)目的のひとつでした。台風の影響で松島以北には向かうことができませんでしたが、塩釜の市場と松島海岸を見てきました。

塩釜では市場を見に行きました。ほぼ終わりかけの時間に行ったので人はまばら…それでもお店の人が声をかけてくれてうれしかったです。ホタテとツボダイを買って、その場で焼いてもらいました。おいしかった!さらには近くのお店で海鮮丼を食べました。おいしかった!!魚介を焼いてくれた市場の人に聞いたら、午前中はもっと人が多いけれど、震災前よりは少ないというお話でした。

松島海岸の方は建物の一部が壊れていたり、営業していないお店がいくつかありましたが、観光客はけっこう戻ってきている印象を受けました。今回は円通院で数珠を作ってきました。瑞巌寺に行くまでの林道の途中に、ここまで津波が来たということを示す看板がひっそりと立っていました。

今回はさらに北の沿岸部には行けませんでしたが、台風の被害を含めてまだまだ大変な状況なのだろうと思います。できることは少ないかもしれませんが、復興に向けて懸命に頑張っている人のことを忘れないようにしたいと思います。

2011年9月12日月曜日

内藤正典・阪口正二郎編著『神の法vs.人の法』

内藤正典・阪口正二郎編著『神の法vs.人の法――スカーフ論争からみる西欧とイスラームの断層』日本評論社、2007年.

※読書会での課題文献。初回は序章&第Ⅲ編。
序章 スカーフ論争とは何か(内藤正典)/第Ⅲ編 鼎談:共生に向けて何を提起するか――そして私たちにとっての意義(樋口陽一・内藤正典・阪口正二郎)

コメント:
・憲法学と社会学という異なる学問分野から「スカーフ論争」にアプローチした著書。「規範から見るか、それとも現実から見るかでその視角は大きく異なっている」(p.313)。このことを踏まえつつ、「規範と現実との間に、どれほどの乖離があるのかを明示する」(同上)ことが目指されている。
・序章では非常にわかりやすく論点が説明されている。これまで知らなかったイスラームの諸側面も数多い。「ムスリムは、一方で世俗主義の西欧と対立し、他方ではキリスト教の西欧と対立していることがわかる。…スカーフ論争は、もはや単に政教分離をめぐる議論ではない。」(p.25)

論点はどこか?
・樋口さん「一人ひとりの個のアイデンティティを重視するのか、それとも一つの文化のあり方そのものを人のアイデンティティの中心に置くのか。」(p.285)
・内藤さん「個と集団との関係として、どうしても西欧側は均質な集団としてムスリムを捉えがちですが、実はイスラームは、信徒を一つの共同体と捉える反面、個人の信仰のありようは、そもそも誰も問えない構造なのだと理解する必要があるのです。」(p.307)

・内藤さんの発言は、ある意味ではどの宗教にとっても同じように言えるのではないだろうか。キリスト教においても、いろいろな考え方を持つ人がいるだろう。それがイスラームに対してのみあてはめられるという非対称性があるのかもしれない。また「原理的に言えばイスラームには、政教分離の発想がない」(p.14)ということも押さえておく必要があるだろう。ただし、政教分離の発想がないことを否定的にとらえる必要はない。つまり、教会組織と国家が対立しあってきたヨーロッパの状況とは大きく異なる歴史的文脈を持つということである。

メモ:
・「非宗教性/ライシテ(laïcité)」と「政教分離」

2011年9月8日木曜日

小島寛之『使える!経済学の考え方』

小島寛之『使える!経済学の考え方――みんなをより幸せにするための論理』筑摩書房(ちくま新書)、2009年.

引用:
「この本で読者のみなさんに提案しているのは、『無条件で何かを信じる』のではなく、『どんな条件のもとでならそれが正当化されるか』、そういうふうに考えましょう、ということです。つまり、『結論』を急ぐのではなく『前提』を明らかにすることが大事だ、ということです。」(p.8)

コメント:
数学を使って、自由や平等や公正を論じる経済学の著書。ロールズやセンも取り上げられている。経済学というと何となくとっつきにくいイメージがあるが、数学を使うことで議論の筋が見えやすくなることもある。食わず嫌いではいけない…。

2011年8月9日火曜日

駒崎弘樹『働き方革命』

駒崎弘樹『働き方革命――あなたが今日から日本を変える方法』筑摩書房(ちくま新書)、2009年.

つれづれなるコメント:
・大人は大人であることを楽しんでいるのだろうか。同じように、教師は教師であることを楽しんでいるのだろうか。今の社会を生きている人びとが充実した人生を送れなければ、その姿をみて育つ子どもがわくわくするような未来を想像できるとは思えない。
・多元的な参加ということについて漠然と考えているが、そのためには著者のいう「可処分時間」(p.154)がもっと増大することが必要だろう。仕事を通じての社会参加のみが重要なわけではない。地域社会、家族などそれぞれのコミュニティへの積極的な参加も同じくらい重要である。もちろん、そのためのシステムも必要だが、それを望ましいと思う意識が何よりも必要だろう。
・学校現場で働く人たちの可処分「時間」を増やしたい!教師は教師のみやっているわけではない。地域社会では一人の住民として、家庭内ではその一員としてさまざまな側面で社会と関わっている。
・家庭内はプライベートな閉じた空間ではない。その中に社会を取り込めるし、社会とかかわる空間にできる。家族を大事にすることが「私的な」ことなのではなく、そこから社会へとかかわっていくための重要な窓口になる。
・「自己イメージが、わたしたちの行動を規定する」(pp.52-53.)には納得。わたしも自分をネガティブ人間だと自己規定してきた節がある。失敗や最悪のケースを予期し、それが本当になっても傷つかないように自分自身をかくまってきた。
・どういう社会をつくるのか、という社会に対するイメージをもつことは自己イメージと同じくらい重要だと思う。その社会というのは「国・政治」に還元されるものではなく、「家族・友人・すぐそばの他者の連なり」(p.193)というところからイメージすることも重要。国はひとつの機構であって、それに関心をもって十分に動かせる人がいないとどうにもならない。
・わたしにとって仕事で自己実現するとはどういうことを意味するだろうか。それが「競争」や「効率」に飲み込まれてしまわないように、ビジョンをしっかりと持っておく必要があるだろう。そのひとつとして著者のいうように「働く」ことのイメージを変えることが重要。
・久しぶりに会う人にはついつい「忙しい?」と聞いてしまうし、自分も聞かれる。そうすると「忙しい方がいいのかもしれない」と思ってしまう。もちろん仕事はある。けれども、それを「忙しい」と形容することは避けよう。

メモ:
・今回の大震災で感じたのは「動けない」自分がいること。時間の問題、資源の問題、言い訳ならいくらでもつけられるだろう。募金はしたので、それでいいのかもしれない。でも、歯がゆさがある。もっと、何か、できるのではないか。身の回りにはいろいろな資源があるのに、それを使いこなせていないだけなのではないだろうか。反省。

2011年8月8日月曜日

デューイ『民主主義と教育』

デューイ「第26章 道徳の理論」『民主主義と教育(下)』(松野安男訳)岩波書店(岩波文庫)、1975年(原著:1916年).

・知識のとらえ方
「知識という語の正しい意味について議論することは必要ではないのである。教育のためには、ある一つの名称の下にあるいろいろな性質に着目すること、行為に重要な点で影響を与えるものは経験の急迫を通して直接に得られた知識であることを本当に理解すれば足りるのである。」(p.239)

・知識と道徳
「目標をもち、他の人々との協働を伴う作業において学習され使用されるものは、意識的に道徳的知識と見なされようと見なされまいと、道徳的知識なのである。というのは、それは、社会的関心を確立し、その関心を実効あるものとするのに必要な知性を授けるからである。」(p.240)

・方法が重要
「単なる学校の諸学科としては、それらの修得はただ専門的価値を有するにすぎない。それらの社会的意義が実感されるような情況の下で修得されるならば、それらは、道徳的関心を育て、道徳的見識を発達させる。」(p.240)

・知的態度の倫理的価値
「道徳的特徴を、権威ある掟に外面的に服従することと同一視する習慣は、われわれにこれらの知的態度の倫理的価値を無視させることになるであろう。」(p.241)

コメント:
論点をどこにもってくるのか。問いのずらし方を参照しつつ、引き続き検討。

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』②

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波書店(岩波文庫)、1982年(初版:新潮社、1937年).

・本当の発見について
「本当に人類の役に立ち、万人から尊敬されるだけの発見というものは、どんなものか、ということだ。それは、ただ君が初めて知ったというだけでなく、君がそれを知ったということが、同時に、人類が初めてそれを知ったという意味を持つものではなくてはならないんだ。」(p.94)

・学問について
「出来るだけ広い経験を、それぞれの方面から、矛盾のないようにまとめあげていったものが、学問というものなんだ。だから、いろいろな学問は、人類の今までの経験を一まとめにしたものといっていい。」(pp.94-95.)

・再び、発見について
「偉大な発見がしたかったら、いまの君は、何よりもまず、もりもり勉強して、今日の学問の頂上にのぼり切ってしまう必要がある。そして、その頂上で仕事をするんだ。」(p.95)

コメント:
自然科学と社会科学(人文科学も?)では「発見」についてのとらえ方が違うのではないかと思う。この見解は、自然科学にのみ当てはまる?どのような意味で「人類が初めてそれを知った」といえるのか。今までの先行研究を踏まえるのはもちろんだが、埋もれてしまった、といえる研究もあるのではないか。見極められるものならば、頂上で、仕事がしたいとも思う。そのためには「もりもり」研究しなければ。

丸山真男「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」

丸山真男「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想――吉野さんの霊にささげる――」(pp.307-338.)、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波書店(岩波文庫)、1982年(初出:新潮社、1937年).

・「客観的」認識について
「世界の『客観的』認識というのは、どこまで行っても私達の『主体』の側のあり方の問題であり、主体の利害、主体の責任とわかちがたく結びあわされている、ということ――その意味でまさしく私達が『どう生きるか』が問われているのだ、ということを、著者はコペルニクスの『学説』に託して説こうとしたわけです。認識の『客観性』の意味づけが、さらに文学や芸術と『科学的認識』とのちがいは自我がかかわっているか否かにあるのではなくて、自我のかかわり方のちがいなのだという、今日にあっても新鮮な指摘が、これほど平易に、これほど説得的に行われている例をわたしはほかに知りません。」(p.317、強調引用者)

・知識と道徳
「『知識』――実は個々の情報に過ぎないもの――のつめこみと氾濫への反省は、これまたきまって『知識偏重』というステロ化された叫びをよび起し、その是正が『道徳教育の振興』という名で求められるということも、明治以来、何度リフレインされた陳腐な合唱でしょうか。その際、いったい『偏重』されたのは、本当に知育なのか、あるいは『道徳教育』なるものは、――そのイデオロギー的内容をぬきにしても――あの、私達の年配の者が『修身』の授業で経験したように、それ自体が、個々の『徳目』のつめこみではなかったのか、という問題は一向に反省される気配はありません。」(p.325)

・修身と社会科
「戦後『修身』が『社会科』に統合されたことの、本当の意味が見事にこの『少国民文庫』の一冊のなかに先取りされている」(p.325)

メモ:
・知識観=(社会)構成主義
・学力観=多文化教育、異文化間教育
・「修身(道徳)」と「社会科」=シティズンシップ?

2011年8月5日金曜日

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波書店(岩波文庫)、1982年(初版:新潮社、1937年).

・関係性を問う学問
「君が大きくなると、一通りは必ず勉強しなければならない学問に、経済学と社会学がある。こういう学問は、人間がこんな関係〔=「生産関係」〕をつくって生きているということから出発して、いろいろ研究してゆく学問だ。」(p.93、〔〕内・強調引用者)

コメント:
人間が関係性の網目に組み込まれているということ。社会学や経済学はそれを前提として問いを提起する学問であるということ。人と人との関係がつながっているという思想から出発しているのだ。専門にしてきた人からすれば当たり前のことなのかもしれないが、わたしには新鮮だった。逆に言えば、「わたしには関係ない」という考えでは話が始まらないということ。(逆にそこから話を始めるということもあるのかもしれないが。)これは社会科学全体に当てはまることなのではないか。経済学では「生産」や「交換」という関係性が中心に分析されるだろう。社会学は?教育学や政治学に置き換えると、どうなるだろう。人は自分が行っていることを知っていても、その法則を知っているわけではない。

・社会認識と道徳
「この1930年代末の書物に展開されているのは、人生いかに生くべきか、という倫理だけでなくて、社会科学的認識とは何かという問題であり、むしろそうした社会認識の問題ときりはなせないかたちで、人間のモラルが問われている点に、そのユニークさがあるように思われます。」(丸山真男、pp.310-311.)
「戦後『修身』が『社会科』に統合されたことの、本当の意味が見事にこの『少国民文庫』の一冊のなかに先取りされているからです。」(同上、p.325)

コメント:
この点についてさらに考察する必要あり。

メモ:
初心にかえる本。高校生の時に読み、大学院に入って読み、そして就職して読み直した。今回は「関係性」のことが気になって「人間分子の関係、網目の法則」を目当てに読んだ。全体的な内容については忘れているところもあり、読むたびに新しい発見がある気になる。その時々で少しずつ成長するコペル君になる。

2011年8月4日木曜日

吉本隆明『真贋』

吉本隆明『真贋』講談社(講談社文庫)、2011年.

・人間として
「具体的に言えば、役目や役職では上下があるのは当然としても、その上下はあくまでも仕事上のものであって、人間としては対等であるという意識が身についていないのではないでしょうか。」(pp.129-30.)

・人を見る目
「人を見る上でもっと〔も〕大事なことを挙げるとすれば、それはその人が何を志しているか、何を目指しているかといった、その人の生きることのモチーフがどこにあるかということのほうだといえる気がします。」(p.135、〔〕内引用者)

・もう一歩が踏み出せない…
「自分にとって真に重要なことは何なんだと突きつけられたら、僕ならこう答えるでしょう。その時代時代で、みんなが重要だと思っていることを少し自分のほうに引き寄せてみたときに、自分に足りないものがあって行き得なかったり、行こうと思えば行けるのに気持ちがどうしても乗らなかったりする、その理由を考えることだ、と。」(p.201)

・いいことはみんな知っている
「いいことをいいといったところで無駄だということです。それは歴史が何回も証明してきました。いいか悪いかではなく、考え方の筋道を深く追わなければ、問題の本質が見えてきません。考え方の微細な筋道をたどっていかないと、解決の糸口を見失ってしまうでしょう。」(p.251.)

メモ:
よしもとばななさんって、吉本さんの娘だったのかー…知らなかった(>_<)
書籍部でみかけて衝動買い。久しぶりの一気読み。

[8/8―一部修正]

2011年7月19日火曜日

福田誠治『フィンランドは教師の育て方がすごい』

福田誠治『フィンランドは教師の育て方がすごい』亜紀書房、2009年.

はじめに/第1章 フィンランドの教師の一日/第2章 フィンランドの教育の特徴とは/第3章 カリキュラムが変わる、教育学が変わる/第4章 探究的教師とは―フィンランドの教師養成制度/第5章 OECDとEUの教育観の転換

要約:
本書は、フィンランドの学力の高さを支える要因のひとつとなっている教師に着目し、その背後に教師の活動を支える教育哲学と教育行政が存在していることを指摘している。どちらかというと、後者のうちの教育哲学により注意を促しているように思われる。「分かれ道は、教育、授業、知識に関する解釈が日本とフィンランドではまったく異なるという教育哲学の違いにある」(p.49)。その転換点は、1994年『国家カリキュラム』にみいだせるという(pp.29-30; 65-66; 72-75; 80-81.)。ここでは、教える教育から学びの支援へと教育の概念が変化した(p.29; 72; 81.)。「教育とは、学び方を教える、知的好奇心や批判的な疑問を育てる、多様で幅広い答えを見つけられるようになること」(p.81.)を意味するようになったのである。そして、社会構成主義がこの変化を支えているという(pp.80-85.)。
実際には、「教師は共通の基礎となるべき知識・技能を教科書に沿って教えていくものの、テストによって競争させるなどの方法で勉強を強制したりはせず、個人作業を重視して、教師が一人ひとりに分かる授業を相違・工夫しながら教育を実現しているという、古い方法と新しい学力観との不思議なバランスが成立している」という(p.119)。このことは本書の第4章で紹介されている教育実習の授業例にあらわれているように思われる。

疑問:
・構成主義と社会構成主義について(pp.80-84.)
個人の文脈を重視した知識の構成とそれを社会的なものにするということがどのように架橋されるのだろうか?理念としては後者、実態としては前者に力点が置かれているように感じた。

引用:
印象的だったのは、以下の記述。
「フィンランドが時代を読み切っていることは確かだ。それでもなおあえて言えば、それが子どもを引き上げる教育でなく押し上げる教育だとしても、子どもたち自身にとっては『しんどい』ことなのだ。他人のせいにでいないということは、逃げ場のないということである」(p.50)。

2011年6月2日木曜日

プラン・ジャパン、はじめました。

プラン・ジャパン(http://www.plan-japan.org/)のプラン・スポンサーシップとプラン・マンスリー・サポーターはじめました。

他国の子どもたちの支援に自分自身が直接かかわることはできないけれど、それでも何かできることはないだろうかと考えていた。前々から何かしたいとは思っていたのだけれど、なかなか踏ん切りがつかなかった。でも就職を機にはじめてみようと思う。どのような支援のあり方が望ましいのかについて、まだ答えを持ち合わせているわけではない。でも、とりあえずはじめてみて、自分のお金がどのように使われるのかをモニターすることで、そのあり方について考えを深めていければと思う。(伊藤恭彦『貧困の放置は罪なのか』2011年2月26日

2011年5月31日火曜日

文部科学省「定住外国人の子どもの教育等に関する政策懇談会」

「定住外国人の子どもの教育等に関する政策懇談会」の意見を踏まえた文部科学省の政策のポイント―現在の進捗状況について(平成23年5月10日)
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/kokusai/008/toushin/1306627.htm

3.「入りやすい公立学校」を実現するための3つの施策
[ポイント]公立学校に定住外国人児童生徒が存在することを前提に、「入りやすい公立学校」を実現するために、主に3つの施策を充実する。
-第一に日本語指導の体制の整備
-第二に定住外国人児童生徒が、日本の学校生活に適応できるよう支援体制を整備
-第三に公立小中学校へ入学・編入学する定住外国人児童生徒の受入れ体制について、制度面の検討を含め、環境整備を行うとともに、上級学校への進学や就職に向けた支援を充実

4.学校外における学習支援
[ポイント]子どもだけでなく、大人に対する日本語学習についても充実を図る。

5.外国人学校における教育体制の整備
[ポイント]ブラジル人学校等が充実した教育内容を提供できるようにする。

6.留学生に対する日本語教育や就職支援
[ポイント]留学生に対する日本語教育や就職支援の抜本的な充実を図る。

7.更に検討を要する課題
[ポイント]以下の課題には、関係府省庁、自治体等の関係機関が連携して総合的に取り組むべく、今後、検討を行う必要がある。

・外国人の受入れに関する基本方針の策定(日本語教育、子どもの教育、雇用、職業訓練、社会保障、住宅等)。
・外国人の子どもの教育課題に対処するための関係機関との連携の在り方。
(行政とNPO法人との情報・課題共有、国・地方自治体・企業等による基金の創設等)
・外国人に対する行政サービスの在り方(ワンストップサービスでの対応、地方自治体間の行政サービスの格差の是正、地方自治体における外国人の生活全般に関わるソーシャルワーカーの育成の支援等)。
・日本語教育の総合的推進
・外国人学校の法的な位置付け及び日本語教育への支援。

2011年5月24日火曜日

教科書の読みかた

小学生や中学生のころ、教科書は勝手に読み進めてはいけないというふうに感じていた。それは、しばしばその先に「答え」が載っていたからではないかと思う。最初から順繰りに新しいページをわくわくしながらめくるのは、それはそれで楽しかった。しかし同時に、本は最初から順を追って読むものだ(し、そうしなければならない)という考え方や習慣を身につけてしまったようにも思う。拾い読みや探し読みが苦手な原因は、こういうところにもありそう。

2011年5月23日月曜日

エヴァ・フェダー・キテイ『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』

エヴァ・フェダー・キテイ『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』岡野八代・牟田和恵監訳、白澤社、2010年.

日本語版への序文/はじめに(pp.1-21.)

引用:
・「本書における私の焦点は、こんにちにおいても、家族の内外で依存のケアに対して多くを期待される女性たちの苦闘にあったのです。」(p.3)
・「私たち人間が深く相互依存する生物であるだけでなく、ときには、必然的・不可避の依存状態を経験するのだということを私たち自身が理解しない限り、男女平等の真の実現はユートピアのままでしょう。」(p.3)
・「依存労働で果たされている移民労働の役割を学ぶことを通して、国家の制度に限定された正義の概念は、こんにちのグローバル化した世界では適さないことがわかってきたのです。」(p.4)
・「家庭は、依存者にとっての避難場所であり、政治理論がすべての人menは平等であるといくら主張しても、家族を廃絶することなどできない。」(p.10)
・「私が言いたいのは、その相互依存は一方的な依存から始まるということだ。」(p.12)
・「本書は、依存労働をより公平に分配することについて論じるものである。」(p.15)

コメント
・このような翻訳書を読むと、草稿の段階で本当に多くの人からコメントをもらっていることがわかる。日本語の文献でそのような記述があるものはあまり目にすることはない。それはきっと、研究にたいする志向を反映しているのではないかと思う。とりわけ、「独創性」に対する考え方の違いを感じる。アイデアを盗まれる、という話を聞くこともあるが、本来、研究を進める上でそのようなことを警戒する必要はないはず。研究の主眼はもっと別のところにあるのではないか。特に社会科学は、何らかの「問題」を取り上げ、自分の立場を明確にしつつ、論じていく作業をしている。研究は、その問題を共有し、多様な視点から考えを深めていくことに価値があるのだろう。その意味では、より多くの人と問題関心を共有するというのは、とても重要なことであると思う。「独創性」というものは、ひとりの独立した思考者(independent thinker)としての「成果」を提示するところに生まれるものだと思う。
・「序文」と「はじめに」しか読んでいないが、著者はとてもわかりやすい言葉で(こなれた翻訳にも助けられている)自身の立場を明確にしている。このような書き方ができるようになりたいし、さらに読み進めていきたい。

2011年5月17日火曜日

アンソニー・ギデンズ『社会学の新しい方法規準』

アンソニー・ギデンズ『社会学の新しい方法規準[第二版]――理解社会学の共感的批判』松尾精文、藤井達也、小幡正敏訳、而立書房、2000年.

まえがき(pp.7-9.)/第二版への序論(pp.11-34.)/第一版への序論(pp.35-52.)

引用:
・「人ひとりの『毎日の実践』は、どのようにして社会システムの構造特性の再生媒体となりうるのか。」(p.22)
・「グローバル化が進展するシステムの再生産なり変容は、あらゆる種類の日々の意思決定や行いと関係している。」(p.23.)

コメント:
・「毎日の実践」と社会システムに関係があるとして、それは具体的にどのようなかたちで結びついているのだろうか。例えば、政策決定過程においては、それがどのように反映されることになるのだろうか。また、人びとは(わたしも含め)このことに対してどれほど自覚的になれるのだろうか。
・これだけ読むだけでもかなりの時間がかかった。登場人物も多く、検討対象の範囲も幅広い。博識。

内田隆三『社会学を学ぶ』

内田隆三『社会学を学ぶ』(ちくま新書)筑摩書房、2005年.

序章 社会学を学ぶ人のために(pp.7-29.)

引用:
・「本質的なことが大切だ」(pp.10-11.)
・「大切なのは、自分の記述はこういう仕方で理論的で、実証的であると説明することだろう。」(p.16)
・「現象学と構造主義は近代の知のもっとも先鋭的な不安の形象である。」(p.24)

コメント:
・そういえば、「いったい何が問題なのか?」といつも研究室の先輩から問いかけられていた。「本質的なことが大切だ」という考え方は、この問いかけと意味するところは同じだと思う。それを頭が痛くなるほど考え詰めていくと、「無駄なものを削ぎ落と」(p.10)すという作業にならざるを得ない。それは、自分の中にあるあやふやな形をした思考や感情に、言葉を与えるプロセスであるともいえるかもしれない。

2011年4月27日水曜日

宮本孝二「ギデンズの社会学」

宮本孝二「第7章 ギデンズの社会学」新睦人編『新しい社会学のあゆみ』有斐閣、2006年、pp.199-219.

構成:
1 構造化理論の提唱/2 モダニティ論の展開/3 ハイ・モダニティと第三の道

引用:
・ポストモダンに対する批判
「ギデンズのポストモダニティ論批判の要点は、ポストモダニティ論が示す認識論への過剰な執着、主体の過剰な脱中心化、構造の過剰な分散化、モダニティの過剰な実体化にある。」(p.214)

コメント:
・現在、授業でギデンズの「The Constitution of Society」を講読中。社会学の素養がないため、解説書を読む。
・濵嶋朗、竹内郁郎、石川晃弘編『社会学小辞典【新版増補版】』有斐閣、2005年.も昨日購入。
・一時期、ポストモダン(他のポスト…も含む)に関する文献を好んで読んでいた。まだうまく理解できていないが、ギデンズとの立場の相違を意識していきたい。

2011年4月22日金曜日

ひと言

久しぶりの投稿です。
3月11日の大地震とその後の片づけ、そして新年度のあわただしさに飲み込まれて、これまでなかなか更新できませんでした。

しかし!4月も終盤になってようやく生活が落ち着いてきたので、徐々にブログを再開できればと思っています。

まだまだ余震が続いています。原発の問題も含め、少しずつでも事態が好転していきますように(>_<)

2011年2月26日土曜日

伊藤恭彦『貧困の放置は罪なのか』

伊藤恭彦『貧困の放置は罪なのか――グローバルな正義とコスモポリタニズム』人文書院、2010年.

構成(pp.9-96.):
序章 貧困に苦しむ人々と私たち/第1章 貧困の放置は罪なのか――貧困の撲滅をターゲットとするグローバルな正義(日常生活に潜む新マルサス主義、日常生活に潜むリバタリアニズム、日常生活に潜むナショナリズム)

引用:
・経済学者ジェフリー・サックス「貧困の罠」(poverty trap)
「サックスは『貧困の罠』から抜け出すための有効な対外援助は、資本の蓄積、経済成長、世帯の所得増という三プロセスの後押しだとしている。」(p.25)
・問題設定
「本書の課題は貧困を撲滅するため富裕国の責任を明らかにし、誰もが貧困から解放され、人間的な生活をおくれる地球を実現するようなグローバルな枠組みを構想する点にある。この構想は最終的には国際的な制度や国際的な公共政策によって可能となるだろう。本書で力点をおくのは、そうした制度や政策の前提となる倫理的な問題である。」(p.28、強調引用者)
・正義について
「『正義』は『各人にその人のものを与える』(suum cuique tribuere)という規範である。」(p.33)
「『等しきものは等しく扱え』というのが正義の規範的要求である。」(p.70)
・(日常生活に潜む)リバタリアニズムへの批判
「一人一人が自分の能力を行使して獲得した財と、自発的交換によって移転した財からなる財の分配結果は正しいという考え方は二つの点で誤っている。第一に自己労働に基づく自己所有という考えは、各人の労働がそもそも可能となるためには、それを支える社会制度が不可欠であるという決定的な問題を考慮しておらず、その意味で倫理的基準とはならない。第二にこの考え方は、労働と交換の背後にある個人間の差異を真剣に考えていない点でも倫理的基準とはならない。」(p.60、強調引用者)
・(リベラル・)ナショナリズムへの応答
「リベラル・ナショナリズムの議論は本章で検討の対象としている困窮者の状況改善を優先する見解に基づく、富裕国から貧困国への財の移転の責任と義務を覆しはしない。さらには財の移転のためのグローバルな制度形成に反対する根拠ともならない。」(p.86)
・問いへの回答
「『貧困の放置は罪なのか』と問われることがある。これに対する本書の答えは、罪を罪として判定する制度上の基準が不在であり、そのことを放置していることが罪なのだということになる。」(p.74)

コメント:
・研究室の読書会で読み始めた本。
・リバタリアニズムへの批判が興味深かったが、この批判の論理と有効性についてはまだ十分に理解できていない。引き続き検討する必要あり。
・著者の戦略は、検討課題を「最低限」のものに限定する(=貧困の撲滅)ことで、一定の倫理を成り立たせようとする点にある。ただし、そのような考え方(ミニマリズム?)自体成り立つのだろうか?(偶然、別の授業でミニマリズムが成り立たないという主張を目にしたところだった。)
・わたしが手にしている財(=所得)のどこまでが正当なものなのだろうか。実際、どのような条件であれば各自の財を移転しようとするかについて話し合った。
・本書では対象外とされているが、その財が実際どのように使われる可能性があるのかという点は無視できないと考える。

2011年2月11日金曜日

無償化の審査手続き停止に対する異議申し立て

朝鮮学校無償化問題FAQのHP(http://w.livedoor.jp/mushokamondai/)より

<異議申し立てに対する通知>

公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律施行規則第一条第一項第2号ハの規定に基づく指定に関する規定に基づく申請に係る不作為の理由について(通知)

平成23年1月17日付をもって異議申し立てのあった公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律施行規則第一条第一項第2号ハの規定に基づく指定に関する規定第14条の規定に基づく申請については、下記のとおり、不作為の理由を、行政不服審査法第50条第2項の規定により通知します。



平成23年1月17日付をもって、あなたから提出のあった公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律施行規則第一条第一項第2号ハの規定に基づく指定に関する規定第14条の規定に基づく申請については、平成22年11月29日の北朝鮮による砲撃が、我国を含む北東アジア地域全体の平和と安全を損なうものであり、政府を挙げて情報収集に努めるとともに、不測の事態に備え、万全の態勢を整えていく必要があることに鑑み、当該指定手続きを一旦停止しているものです。

以下、髙木義明文部科学大臣記者会見録(平成23年2月4日)より抜粋

記者)
大臣、行政手続法との関連ですが、高校無償化の朝鮮学校の異議申立ての審査、決める期限が迫ってますけれども、現段階でどのように御検討されてますか。

大臣)
いずれにしてもですね、私どもとしては今の状況が、手続きの停止の状態にございます。それに対して異議申立てというのがあっておりますので、6日、日曜日が回答期限でありますから、本日も審議が終わって、予算委員会もありますから、審議が終わって改めて検討して回答するということです。どういう内容で回答するかというのは、今日の審議が終わってからの検討を詰めてみたいと思っています。

記者)
どういう内容かは、これから予算委員会が終わってから検討されるということなんですけど、基本的にはいわゆる停止の理由の説明を朝鮮学校側にするという。

大臣)
はい、そうですね。回答はします。

記者)
それは再開はもう現時点、今日時点では難しいというお考えでよろしいでしょうか。

大臣)
いや、まだそこまでは言い切れません。まだ事態の推移というのもありますから。

記者)
明日土日に入ってしまうので、朝鮮学校側に今日停止の理由について回答するという動きはとれているということでしょうか。

大臣)
はい、今の状況ですね。今の状況について私たちとしては、御回答いたすと。したがってこれはもう止めますという話でもありません。

記者)
なので、今は朝鮮学校側に対して停止しているということを向こう側に文書をもって回答されるということですか。

大臣)
はい。

以下、髙木義明文部科学大臣記者会見録(平成23年2月8日)より抜粋

記者)
高校無償化ですけれども、昨日、朝鮮学校側が会見をしまして、改めて間に合わないのではないかという危機感を相当持っていて、早く再開してほしいというような話だったんですけれども、大臣としては先週回答されて、今も再開されていない状況ですけれども、いつ頃までに再開すれば、年度内支給というのが可能になるというお考えでしょうか。

大臣)
これは私どもとしましてはですね、昨年の11月5日の時点で、手続き基準も決めました。その時の思いはね、高校無償化の理念に添って、我が国で学業に励む高校生、意欲のある高校生に対しては支援をしていくという方針を受けて、進める基準も決めました。その思いは今でも変わっておりません。ただ、11月23日の思わぬ事態がございまして、総理の指示によってそういうことになっておりまして、その中でのいわゆる行政不服審査法に基づく異議申立ということに対する回答日が2月6日に迫っておりましたので、それについてやっぱりお答えすることが妥当だろうと思って、状況についてお答えをしたところです。その中で、現時点においては再開を見送るということにしておりました。今後も事態の推移を見守って、我々としては高校無償化の定着に向けて、これからも努めて参りたいと思っております。
(強調―引用者)

毎日新聞「朝鮮学校 無償化手続き再開に慎重 中野拉致問題相」(2011年2月4日)
読売新聞「朝鮮学校の無償化審査手続き停止『再開せず』」(2011年2月4日)
産経新聞「朝鮮学校無償化、手続き停止を続行」(2011年2月4日)
NHKニュース「朝鮮学校 審査手続き再開訴え」(2011年2月7日)

2011年2月4日金曜日

るんみ「近くて遠い学校」

市民がつくるTVF2011」で<ビデオ大賞>を受賞した、朝鮮学校についての作品。

「近くて遠い学校」るんみさん(26歳・東京都)
http://tvf2010.org/nominate/s16.html


以下、鈴木寛文部科学副大臣記者会見録(平成23年1月27日)より抜粋

記者)
…先週月曜日に朝鮮学校側から無償化の手続きの再開を求めて異議申立てがありましたが、これから一週間たって、これについての副大臣のお考えと、これからの見通しをお願いします。

副大臣)
…学校法人東京朝鮮高級学園から文部科学省に対して、高校無償化適用に関する異議申立書の提出があったということは事実でございます。…(中略)…ただ、御案内のようにですね、今いったん停止をしておりますのは総理指示ということでございますから、基本的には総理の側から何らかの御指示があるまでは、私どもだけで何かアクションを起こすということにはなりませんので、官邸の方でも総合的にいろいろと情勢を見極めていただいていると思いますが、指示があれば適切に対応できるようにして参りたいと思っております。

以下、髙木義明文部科学大臣記者会見録(平成23年1月28日)より抜粋

記者)
閣議・閣僚懇で朝鮮学校の件は出ましたでしょうか。

大臣)
いや、今日は出ておりません。

記者)
朝鮮学校の件で、大阪府が来年度の補助金の計上を見送ったと、それは朝鮮学校との関係が一つの理由になっているんですけれども、大臣、このことについてはどのようにお考えですか。

大臣)
これは、一部報道でございまして、私たちとしては事実確認しておりません。しかしこれは、大阪府の判断だと思っております。私としては特に、文部科学省としてはコメントする立場にはありません。

記者)
特にこれが今後の再開に向けた手続きに影響を与えるという可能性は。

大臣)
それはないと思います。

記者)
東京朝鮮学校の学校法人からの異議申立てへの対応の今の状況を教えてください。

大臣)
これは、返答期日が、2月6日ということになっておりますので、それまでに何らかの対応を考えなきゃならんと思います。

記者)
具体的にはまだ。

大臣)
はい、具体的には特に。

記者)
ありがとうございました。

コメント:
・政府の動きは止まっています。

参考URL:
日本弁護士連合会「高校無償化法案の対象学校に関する会長声明」(2010年3月5日)
piccolo BLOG「朝鮮学校無償化停止について」(2010年11月28日)
金明秀「日系アメリカ人の強制収容所問題と朝鮮学校の無償化除外問題の相似について」(2011年1月27日)

[2/5-参考URLを追加]

2011年2月2日水曜日

【審議会情報】グローバル化社会の大学院教育

【審議会情報】
・グローバル化社会の大学院教育~世界の多様な分野で大学院修了者が活躍するために~答申
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/1301929.htm

グローバル化社会の大学院教育~世界の多様な分野で大学院修了者が活躍するために~答申
グローバル化社会の大学院教育~世界の多様な分野で大学院修了者が活躍するために~答申(ポイント版)
グローバル化社会の大学院教育~世界の多様な分野で大学院修了者が活躍するために~答申(概要)

ポイント版より:
<経緯>
・平成17(2005)年「新時代の大学院教育」(中央教育審議会答申)の提言
 ――大学院教育の実質化(教育の課程の組織的展開の強化)
 ――国際的な通用性、信頼性(大学院教育の質)の向上
<検証結果・課題>
・博士課程の問題点
 ①博士の学位が如何なる能力を保証するものかの共通認識が未確立
 ②後期の教育が個々の担当教員がそれぞれの研究室等で行う研究活動を通じたものにとどまること
 ③大学院が養成する人材像と産業界等の評価や期待に関する認識の共有が十分でなく、修了者の多様なキャリアパスが十分に開かれていないこと
 ――学生が博士号取得までのプロセスや経済的負担、キャリアパスに関する十分な見通しを描くことができないことが大きな課題
<「日本」の生き残りをかけて…>
「世界に先んじて進む少子高齢化と人口減少を迎える我が国が、将来にわたって成長し続け、世界の中で存在感を発揮し続けるためには、人類社会が直面する未知の課題を世界に先駆けて解決に導き、その成果を世界に展開することのできる高度な人材の輩出が必要であり、博士課程教育の飛躍的な充実が急務」(強調―引用者)
<改善方策>
1.学位プログラムとしての大学院教育の確立
  修得すべき知識・能力が明確な学位プログラムとしての大学院教育を確立し、学生の質を保証
2.グローバルに活躍する博士の養成
  課程を通じ一貫した博士課程教育を確立し、グローバルに活躍する高度な人材を養成

重要:
「研究テーマや研究方法、詳細な工程等を記載した研究計画の作成や研究進捗状況の中間発表等を通じ、学生と教員との間で学位授与に必要なプロセスを確認・共有」

疑問:
「広範なコースワークや複数専攻制、研究室ローテーションなど研究室等の壁を破る統合的な教育を経て、独創的な研究活動を遂行する一貫した学位プログラムを構築」
・何年間で修了することが想定されているのか?研究室の壁は阻害要因?組織化の問題?研究の独創性はどこから生まれるのか?
「体系的に知識・能力を修得させるコースワーク等が充実」
・誰にとっての体系的な知識なのか?時間はかかるけれども、院生が各自で自分の知識を体系化していく必要あり。既存の体系化された枠組みを打ち破るような研究が必要なのでは?
「広範なコースワークや統合的な教育を行い、基礎的能力を厳格に審査」
・誰がどのように見極めるのか?基礎的な能力の基準をどのようにつくるのか?
・これまでの大学院教育のよかった点はどこにあるのか?今の時代に合わない部分のみが焦点化されているような印象も受ける。大学院教育は誰がどのように担ってきたのか?

文科省HP
人文学及び社会科学の振興について(報告)-「対話」と「実証」を通じた文明基盤形成への道―
カール・セーガン『人はなぜエセ科学に騙されるのか』(2010年8月17日火曜日)より再掲。まだ読めてません…。

2011年1月31日月曜日

小川仁志『はじめての政治哲学』

小川仁志『はじめての政治哲学――「正しさ」をめぐる23の問い』(講談社現代新書)講談社、2010年.

構成(pp.3-136.):
はじめに いまなぜ政治哲学なのか
第1章 自由をめぐる論争(以下、副題のみ)
1 功利主義/2 カント倫理学/3 リベラリズム/4 コミュニタリアニズム/5 リバタリアニズム
第2章 民主主義をめぐる論争
6 権力/7 デモクラシー/8 熟議民主主義/9 シティズンシップ/10 第三の道
第3章 差異と平等をめぐる論争
11 社会主義/12 多文化主義/13 宗教多元主義/14 フェミニズム/15 福祉国家

コメント:
・文献の副題にある「正しさ」とは?正義(justice)?善(good)?それ自体が論争的。
・政治哲学で議論されている話題が網羅的に扱われている。それぞれの項(1~15)の最初では身近な例を挙げて論点を明らかにしているところがすごくいい。その後の議論が追いやすい。
・しかし、たまに議論がとんでいるところがある(たぶん、自分が詳しいところ)。
・個人的には「13 宗教多元主義」と「14 フェミニズム」が興味深かった(たぶん、自分が詳しくないところ)。

引用:
・著者が、宗教学者レザー・アスランを引きながら述べている箇所。「相手を遠ざけることによって恐怖心を取り除くことなどできません。そうではなくて、相手を認めたときはじめて、恐怖心は消え去るのです」(p.119)。なるほど、と思った。このような認識を持つことは今後より必要とされるだろう。問題は、そのような機会をどのように創り出すのかという点。もともと排除されている人と出会うのは困難であることが考えられる。また出会ったとしても、その「特殊性」のみが強調される可能性もある。つまり、「われわれとは違う」という認識は変わらないまま、ということである。「相手を認め」るということの難しさ。
・「大切なことは、なぜどっちかに有利な社会になってしまうのか」(p.121)ということを明らかにすること。「構造的」な「権力関係」(≒規範)の問題を、どのように明らかにすることができるのだろうか。ずっとそれに取り組んできたのはフェミニズムかもしれないとも思う。

2011年1月30日日曜日

OECDの調査研究

※授業の発表で引用されていた移民の子どもの教育に関する資料の出典を調査。

経済開発協力機構(OECD: Organisation for Economic Co-operation and Development)のHP(http://www.oecd.org/home)より

教育の5つのカテゴリ
 1 就学前教育・学校教育(Preschool and school)
 2 高等教育・成人の学習(Higher education and adult learning)
 3 教育・経済・社会(Education, economy and society)
 4 人的資本(Human Capital)
 5 研究・知識マネジメント(Research and knowledge management)

教育・経済・社会の3つのプロジェクト
 1 学習の社会的成果(Social Outcomes of Learning project)
 2 教育と多様性(Education and Diversity)
 3 教育・訓練政策(Education and Training Policy - Projects)

教育と多様性に関する3つのテーマ
 1 移民の教育(Migrant Education)
 2 先住民の教育(Indigenous Education)※2007年オーストラリアでセミナー開催。
 3 特別な教育ニーズ(Special Needs Education)※調査中。

移民の教育に関する調査研究(2008年1月~)
●問題設定:
 移民第一世代・第二世代に対する教育がよりよい成果をあげるには、どのような政策が有効か。

●分析アプローチ
 教育システムへのよりよい統合を測定するための3つの基準
  ・アクセス、参加、学習成果
 4つの次元にそった分析アプローチ
  ・学校への統合を促進するための主要な政策介入とその評価の特定
  ・学校における成功要因の分析
  ・低学力、早期離学、不就学を引き起こす分離要因の分析とそれらに対する主要な政策対応
  ・成功要因を活用し、分離要因に対処するような政策アプローチと実践の特定

●研究方法
 第1期:概念枠組みの設定
 第2期:資料収集
 第3期:分析と政策に対する勧告

●参加国
 オーストリア、デンマーク、アイルランド、オランダ、ノルウェー、スウェーデン

メモ:
・上記「不就学」の原語は「non-enrollers upon arrival」。実際、どのような子どもを意味しているのか確認する必要あり。

2011年1月24日月曜日

文献検索<市民権>

Key word:市民権
Database:Amazon(50件までチェック。関連するもののみ出版年順に列挙。)

●安江則子『ヨーロッパ市民権の誕生――マーストリヒトからの出発』(丸善ライブラリー)丸善、1992年.
●伊藤周平『福祉国家と市民権――法社会学的アプローチ』(叢書・現代の社会科学)法政大学出版局、1996年.
●ウィル・キムリッカ『多文化時代の市民権――マイノリティの権利と自由主義』(角田猛之、山崎康仕、石山文彦訳)晃洋書房、1998年.
●エティエンヌ・バリバール『市民権の哲学――民主主義における文化と政治』(松葉祥一訳)青土社、2000年.
●近藤敦『外国人の人権と市民権』明石書店、2001年.
●デレック・ヒーター『市民権とは何か』(田中俊郎、関根政美訳)岩波書店、2002年.
●高佐智美『アメリカにおける市民権――歴史に揺らぐ「国籍」概念』勁草書房、2003年.
●名和田是彦(編)『社会国家・中間団体・市民権』(法政大学現代法研究所叢書)法政大学現代法研究所、2007年.
●鈴木規子『EU市民権と市民意識の動態』(叢書21COE-CCC多文化世界における市民意識の動態)慶應義塾大学出版会、2007年.
●岩永真治『グローバリゼーション、市民権、都市――ヘクシスの社会学』春風社、2008年.

2011年1月23日日曜日

デジタル教科書

デジタル教科書、デジタル教材についての書籍を検索。2010年後半に盛り上がってますね。以下、発行順に列挙。

●山内祐平『デジタル教材の教育学』東京大学出版会、2010年.(2010/04/26)
●原口一博『ICT原口ビジョン』ぎょうせい、2010年.(2010/7/7)
●田原総一朗『緊急提言!デジタル教育は日本を滅ぼす』ポプラ社、2010年.(2010/8/26)
●矢野耕平『iPadで教育が変わる』(マイコミ新書)毎日コミュニケーションズ、2010年.(2010/9/25)
●中村伊知哉、石戸奈々子『デジタル教科書革命』ソフトバンククリエイティブ、2010年.(2010/9/30)
●田中眞紀子、外山滋比古『頭脳の散歩――デジタル教科書はいらない』ポプラ社、2010年.(2010/10/1)
●中村東吾『孫正義のデジタル教育が日本を救う』(角川SSC新書)角川SSコミュニケーションズ、2010年.(2010/11/10)

2010年5月には民間の協議会も立ちあげられている様子。
デジタル教科書教材協議会(DiTT)HP
「文部科学省は〔2010年〕4月22日、『学校教育の情報化に関する懇談会』を開催し、総合的な推進方策を検討することとなりました。また、昨年〔2009年〕末、総務大臣は『デジタル教科書を全ての小中学校全生徒に配備(2015年)』という目標を発表しました。/ここでいう『デジタル教科書・教材』とは、教科書や教材といったコンテンツやアプリケーションだけでなく、それを使う端末、機材やソフトウェア環境、ネットワーク・システムなどを含む『デジタル技術による総合的な教育・学習環境』を言うものと解釈します。」(デジタル教科書・教材の普及推進についてより、〔〕内引用者、「/」は原文の改行を示す。)

文科省の懇談会はこちら。
学校教育の情報化に関する懇談会(平成22(2010)年4月15日設置)
「教育の情報化ビジョン(骨子)」(平成22(2010)年8月26日公表)

第9回の懇談会(平成22(2010)年12月3日)ではつくば市の学校を視察。
つくば市学校ICT教育推進プログラム
つくば市ICT教育活用実践事例集(平成21年度)

コメント:
・情報化(デジタル化)によってこれまでの「教科書」の既成概念が徐々に壊されていくことになるだろう。それがどのような方向性をもつかという点に関心がある。
・情報化(デジタル化)の特性として、合理性(とりわけ時間の短縮による効率化)が挙げられるだろう。しかし、これが教育場面における「児童・生徒が思考する時間」や「教師が待つ時間」にも及ぶとすれば、それは懸念すべきだろう。
・例えば、教科書の文字の拡大や縮小が自由にできるようになれば、拡大教科書をつくるよりも個々のニーズに対応するものになる可能性があるのではないだろうか。
※上記の書籍、資料をしっかりと読んだ上でのコメントではないです。あしからず。

2011年1月17日月曜日

植村邦彦『市民社会とは何か』

植村邦彦『市民社会とは何か――基本概念の系譜』(平凡社新書)平凡社、2010年.

構成(pp.7-124.):
序章 「市民社会」とは何か/第1章 「国家共同体」としての「市民社会」――アリストテレスからロックまで/第2章 「市民社会」と「文明社会」――ルソー・ファーガスン・スミス/第3章 「市民社会」概念の転換――ガルヴェ訳『国富論』とヘーゲル

コメント:
・「市民社会」という概念の系譜を丹念にたどった書。この概念にまつわる諸々の用法を整理する上で、非常に参考になる。

<本書の中で引用・検討されている文献(第1章~第3章)>
1252年~『命題集注解』アクィナス
1260年~『政治学』アリストテレス(ラテン語/メルベケ訳)
1265年~『神学大全』アクィナス
1268年~『アリストテレス政治学注解』アクィナス
1483年 『政治学』アリストテレス(ラテン語/ブルーニ訳)
1559年 『神学綱要』メランヒトン
1568年 『政治学』アリストテレス(フランス語/ロア訳)
1593年~『教会統治法』フッカー
1598年 『政治学』アリストテレス(フランス語→英語/訳者不詳)
1599年 『ヴェネツィアの為政者と共和国について』コンタリーニ(英語/ルークナー訳)
1640年 『法の原理』ホッブス
1642年 『市民論』ホッブス(ラテン語)
1651年 『リヴァイアサン』ホッブス
1690年 『統治二論』ロック
1748年 『法の精神』モンテスキュー
1755年 『人間不平等起源論』ルソー
1762年 『社会契約論』ルソー
1767年 『市民社会史論』ファーガスン
1776年 『国富論』スミス
1776年~『国富論』スミス(ドイツ語/シラー訳)
1791年 『国富論』スミス(英語/バーゼル版)
1794年~『国富論』スミス(ドイツ語/ガルヴェ訳)
1820年 『法の哲学』ヘーゲル

2011年1月14日金曜日

続々・「学術スキル」なるもの

続・「学術スキル」なるもの(2010年12月4日)の続き。

研究を進めていく上で、大学院生に必要なスキルを考えてみる。

●検索:各種データベース、図書館
●管理:紙媒体(コピー、製本)、電子媒体(EndNote、RefWorksなど)
●講読:読解(SQ3R)、メモ(Note taking)
●方法:社会調査(量的調査、質的調査)、文献研究(1次資料、2次資料)
●構想:整理法(Mind Mapping、KJ法?)
●論文:論述(演繹、帰納、比較)、引用(要約、Paraphrasing)、注(各種スタイル)
●発表:紙媒体(論文、レジュメ)、電子媒体(PPt、ポスター)

「研究者としてあるべき姿」は諸先生方、諸先輩方をみて(その背中から)学ぶとしても、大学院生として研究を始めるにあたって、これらの基本的なスキルについてあらかじめ知ってて損はないと思う(と今になって思う)。

2011年1月9日日曜日

左か、右か

思い切って単純化してみる。

     左        右
<経済>
    集 団----------個 人
    社会主義    新自由主義
国家: 大きい----------小さい

<政治>
    個 人----------集 団
    リベラル   コミュニタリアン
国家: 中 立--------価値志向的

経済的(右)と政治的(右)は結びつきやすい。
経済的(右)は政治的(左)と親和性をもつ。

経済的(左)と政治的(右)の関係、
経済的(左)と政治的(左)の関係はどうなんでしょう。

2011年1月8日土曜日

大学院生の生態

大学院生の生態は世の中の不思議のひとつではないだろうか。わたしもかつては世の中の一員で、大学院生はいつも部屋にこもって何をしているのだろうと思っていた。

「大学院生っていったい何をしているんですか?」

大学院生となった現在、この問いに答えることのできる立場にいるのだが、どうも説明しにくい。

一見それはわかりやすい。
大学院生の本業は研究である。
現在いる課程の目的からいえば、その最初のステップとして修士論文や博士論文を仕上げるために在学していることになる。
もう少し長い目でみれば、研究者となるトレーニングを積んでいるということになる。

けれども、その過程で何をやっているのかがわかりにくい。
日々実際にやっているのは、文献や論文を読む、考える、まとめるという作業である。

先の問いへの回答を困難にしているのは、おそらく、この作業が恐ろしく時間のかかるものであるということに起因している。

それぞれの段階で時間がかかる。
文献を読むにしても、その前にもろもろのデータベースを用いて文献を選ばなければならない。
考えるにしても、自分の既知の知識をいちいち整理し直さなければならない。
そしてまとめるときには、自分の理解がためされることになる。このとき、しばしばこれらの作業(読む&考える&まとめる)が行きつ戻りつ繰り返されることになる。

このように時間がかかることをうまく説明できないというのが、現時点での分析。

2011年1月4日火曜日

新年明けまして、

おめでとうございます。2011年になりました。

大学に入ったのが2001年ですので、大学にいる生活は11年目です(数えやすい)。
研究者としての修行を本格的に始めてからは6年目に突入します。

この期間で自分がどれだけ伸びたのか不安になりますが、
日々の取り組みが将来につながると思ってこつこつがんばりたいと思います。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。