2015年10月11日日曜日

恐ろしいもの

人の存在を消そうとする言葉。

いじめで生み出される言葉も、ヘイトスピーチで生み出される言葉も、もとをたどれば同じじゃないか。

それは表現の自由などではなく、明らかな暴力だろう。だって、言葉を投げつけた人の声を奪おうとするものだから。

自分の存在が消されようとする…本当に恐ろしいことだと思う。マイノリティが声を上げるのは、マジョリティが「存在を消す」言葉を発しているからだと思う。マイノリティを生み出すのは、マジョリティの無自覚な言葉じゃないのか。

これもいじめと同じ。いじめられるひとの属性なんて関係ない。いじめられるひとを生み出すのは、いじめる人だ。理由なんて、なんとでも言えるのだから。

2015年9月22日火曜日

もの忘れの一種

あることをやろうと思って、目的のものを探す。
(いらない写真を消そうと思って、携帯のフォトを開く。)
  ↓
目的のものを見つけるとともに、そういえば…と思って他のことをやり始める。
(写真を消していたら、他にも必要のない写真を見つけて次々と消し始める。)
  ↓
(途中、マイフォトとフォトストリームの違いが気になって調べだす。)
  ↓
(結局、今まで撮った写真をすべて整理する。)
  ↓
当初、何のためにそのことを始めたのかを思い出せない。
(写真の整理に時間を費やしたが、そもそもなぜやり始めたのかわからない。)
  ↓
そのうち思い出す。
(いらない写真を消すために始めた作業だったことに気付く。)


長期記憶はあまり保持されないけど、いよいよ短期記憶も…?

やりたい研究、あるいは研究を通じてやりたいこと

わたしがやりたいのは、ざっくりいえば「成員資格(メンバーシップ)」にかかわる研究です。(もっとよい表現はないだろうかと考えていますが…。)

簡単にいうと、誰がある集団の内側にいる(わたしたち/we=自)と認識されていて、誰がある集団の外側にいる(他者/others=異)と認識されているのかということです。もう少し具体的にいうと、本来は何も区別がないはずの「ひと」の集団を、さまざまな属性によって区別するということがどのように行われているのかを研究するということです。

わたしの着目している属性は、しばしば「生まれながらのもの」とみなされている、国籍、性別、人種、障害、エスニシティなどです。これらの属性は、その「ひと」に本来的に備わっているものであり、簡単に変えることはできないとみなされてきました。しかしこれまでの研究の蓄積において、このような「ひと」を分けるさまざまな区別は、ひとの認識によってつくられていることが指摘されてきました。例えば、「ジェンダー」という概念が提起されてきたのもその一つといえるでしょう。

これらの区別が、どのように生成され、維持され、また変容させられているのか。その前提にある考え方や、その境界線の歴史をたどることで、現在の区別の恣意性や構築性を明らかにできるのではないかと考えています。これまで読んだ本のタイトルで「びびっ」ときたのは、杉田敦『境界線の政治学』(岩波書店、2005年)や、佐藤郡衛、吉谷武志編『ひとを分けるものつなぐもの: 異文化間教育からの挑戦』(ナカニシヤ出版、2005年)です。

また、このような認識をもつことは、社会や集団の成員の多様性を受け入れるための一助になるのではないかと考えています。岡本智周『共生社会とナショナルヒストリー: 歴史教科書の視点から』(勁草書房、2013年)では、「社会的カテゴリ」(社会現象を整序する認識枠組み)をキーワードとして同じような問題を提起しています。

わたしが着目しているのは、このうち「国民」と「非-国民(外国人)」を分ける境界線です。現在は、「シティズンシップ」をキーワードとして論じられることが多くなっています。シティズンシップは、成員資格(メンバーシップ)の一類型といえるでしょう。

教育に関心をもつ身としては、とくに教育(政策の立案)の場面において、その認識がどのように生じているのか、またどのように政策として具体化されていくのか。その背景には、どのような要因があって、強化されたり、弱められたりするのかを明らかにしたいと考えています。

研究上のキーワードは、「シティズンシップ」、「ナショナリズム」、「(多文化)共生」で、現在は、イングランドの事例に着目しています。

しかし、この研究もまだまだ道半ば…。
んー!がんばろう!

「研究する」ときの立ち位置

以下、O先生の最近のコメント。

とりあえず、社会学の「言ったモン勝ち」「こんなこと考えている俺ってかっこいいだろ」の側面や、教育学の「こうあるべきだ」「エビデンスに基づいた政策的インプリケーションですよ」の側面には、もうあんまりお付き合いできないところで、お仕事していくことになるのかなと思います。

このコメント、気になったのでちょっと考えてみる。先生は何から距離を置こうとしているのか。
とくに気になったのは、最後に挙げられている側面。これは教育(政策)にかかわる研究において、常に強調されていること。「エビデンス・ベース(根拠に基づく)」というもの。なぜ、ここからも距離を置こうとするのだろう。

前者の態度には「研究<自分」、後者の態度には「事実<規範」という共通点がみいだせるように思う。両者の態度は、現実に生じていることを描写するという作業を行うとき、その描写をゆがめる要因になりうるのではないか。つまり、自分のみたいようにものをみてしまったり、こうあったらいいなという理想を優先させてしまう。

自分をどこに置くのか、現実をどうみるのか。

追記:
先日、J-waveに出ていた小曽根真さんが音楽と自分の位置についてお話しされていたのを聞いて、研究と似てるところあるな~と思いました。

2015年9月19日土曜日

あること、ないこと

ついつい、「ないこと」について考えてしまうけど、
「あること」に目を向けるといいんだって。

ポジティブに考えること。
普段、こういう考え方してないなぁ。

楽しいメールを受け取りたい

すでに、ワーカホリック?

すぐにメールの確認をしてしまう。仕事が気になる。
短期的にこなすことに時間を費やしている。

よくない。これはよくない。
一年半前の感覚を思い出す、今日この頃。

バランス、バランス。

2015年8月29日土曜日

一万時間

続けて投稿。

大学院でのトレーニングについて
〈人文社会系/アウトプット編〉

その①:授業の講読文献の発表レジュメの作成
下ごしらえ
・趣旨がわからないとまとめられない。
 →一度読んでもわからない場合、二度、三度読むことも。書き方が悪い、というオチもある。
・基本的知識がないと理解できない。
 →用語辞典や概説している文献で基本的な用法を確認。
・その文献が参照している文献をたどり、論述の根拠を確認しないといけない。
 →どこまでできるかは、時間との闘い。

本番
・相手(文献)の言っていることを押さえた上で、議論が不十分な点を指摘したり、
 この文献から学べることや現代的意義について考察する。

このトレーニングは、基本的には最初の2年間みっちり。

その②:研究会での発表レジュメの作成
・問題設定をするために、関連すると思われる先行研究を検討する。
 →購読文献の下ごしらえの作業と同じ。ただ、関連する文献は網羅的に収集する。
・資料を収集する。
 →先行研究において根拠となっている一次資料を収集し、自分なりに整理していく。
  と同時に、新たな資料を掘り起こす。

本番
・論文の問題設定の妥当性を論証しつつ、資料の意義や位置づけについて説明する。
 →どのような研究方法を用いるかによって異なる。

このトレーニングは、大学院に入ってから出るまで続く。
博士課程はあまり授業がないので、ほぼこの作業に時間が費やされる。

その③:投稿論文の執筆
・研究成果を公表するため、学会誌に投稿する。

このトレーニングは、博士課程に入ってから行うことが多い。
研究をやめることになるまでずっと続く。


自分の10年余りの研究者(たまご)生活を思い出してみると、こんな感じ。

授業のレジュメの作成は最近していない。
研究会での発表も今はしていない。もう書くしかない状態。
今は、博論の仕上げと共同研究の原稿、依頼いただいている原稿に取り組み中。

これまでは「読む」中心だったけど、これからは「書く」中心。
何事かを成し遂げるには、一万時間必要(らしい)。

ということで、まだまだトレーニングは続くのです。

encourage me

基本がネガティブ。
そんな自分に向けたいくつかの言葉。

・Enjoy! (楽しむ!)
 →これ大事ですね。

・Anyone who has never made a mistake has never tried anything new.
 (一度も失敗をしたことがない人は、何も新しいことに挑戦したことがない人である。)
 →J-waveで聞いた名言。アインシュタインの言葉。

・機会が与えられていることに感謝すること。

挑戦する機会は誰もが得ているわけではない。楽しみながら、今の自分を試そう。
失敗はつきもの。恐れずに挑戦しよう。そして、経験を積もう。


おまけ

・「どうしたらなれるか?」と考えるヒマがある、という時点で(きつい言い方をすれば)
 演奏家への道はないと考えていい。
・毎日食べたり飲んだり空気を吸ったりするのを「一所懸命」やるわけではない。
 同じように、毎日休まず音楽をやるのは「生きるのと同じ」であって、それが「自然」だからだ。

2015年8月27日木曜日

読む、考える、書く

この繰り返し。

前は、読む→考える→書くの循環が中心だったけれど、
今は、書く→考える→読むの循環になっていると思う。

前は、「散読」という感じで、手当たり次第、気になったタイトルのものを読み漁る、
必要そうなものは手元に置くようにする、というような感じでした。

今は、「探読」という感じで、必要な情報、どこにあったっけ?と記憶を掘り起し、
必死に手元の資料を整理するという感じです。

頭の中のマッピングは、一筋縄ではいかないもの。
行きつ戻りつ、ぐるぐるしつつ、深まっているのか、
はたまた同じ場所に戻ってきているのか…。

後になってようやくわかる。
そこからまた、問いが問いを生む。

ひとつ研究のキーワードが増えるだけで、
膨大な過去の議論の蓄積に向き合うことになるのです。

最初は溺れましょう。そのうちどうにか泳げるようになるでしょう。

2015年8月15日土曜日

8月15日に寄せて

「どうしたらいいの?」という問いかけがあったら、
「どうしたらいいと思う?」と答えようと思う。

考えること、そのプロセスを促したい。
問いを投げかけたことを大切にして、共に考えたい。

もっともらしい答えを与えるのは簡単かもしれないが、
実際、考え続けることは難しい。

民主主義とは何だろうか?

それはひとりひとりに考えることを促すことではないか。
あなたの考えは貴重な一つの意見だ、として受け止めることではないか。

それは何よりも、相手を信頼しているということだ。
対等に話し合う相手として、尊重しているのだ。

平和とは何だろうか?

みんなが、自分のやりたいことを自由に追求できる条件ではないか。
絵をかく、歌を歌う、野球に打ち込む、子育てをする、何でもいい。
考える自由も、もちろんそのうちのひとつだ。

それができる環境があるということだ。
空気みたいになっている、きっとそういうものだ。

平和を維持するのは、とても難しいことだと思う。
でも、平和を叫びたい。

同時に、いま享受している平和が、時間的・空間的に他の人の
犠牲の上に成り立っている可能性について常に考える必要があるだろう。

平和だと思っていても、気づかないだけで、
平和ではない状況はそこらへんに転がっているだろう。

身の回りの平和だけではなく、すべての人に平和が訪れるように。
人が尊厳なく扱われることがなくなるように。


※最近読んだものの影響を受けつつ、書く。
 ・ポリタスの記事「戦後70年」
 ・『1984年』[新訳版]


2015年8月7日金曜日

10年後も、同じことを言えるか

10年後も、わたしは今と同じことを言えるだろうか。

状況が変わり、立場が変わり、さらにいろいろな変化がある中で、
それでもわたしの中で変えたくないと思っていること。
それを貫き通すことができるか。

とりあえず、忘れないように書いておこう。
研究を何のためにやるのか。なぜ研究者なのか。

世界の平和を目指すため。
(おっきく出た!これは高校卒業時に担任の先生からもらった言葉。)

自分を含め、身近なところからの意識の変容しかり、国家にとらわれない発想しかり。
人びとが共に生きるために、わたしの視点から提起できることを追求する。

あと、研究は競争ではないこと。

みんなで、事実や解釈の積み重ねをしているということ。
ただ順応するのではなく、批判的にみていくこと。
(批判は否定ではありません。)

お酒を飲みながら、でもすっと出てきた言葉たち。
そして、それを聞いてくれる人たち。

わたしが自分の方向を見失ったら、きっと叱ってくれるでしょう。

2015年6月5日金曜日

紫陽花待つ季節

本当に、おもしろいことに、約一年ぶり。
この季節は、ブログが気になる季節なのでしょうか(謎)。

最近、更新が止まっていますが、サイボウズ(非公開)の方でレジュメをアップしたり、
ツイッターで情報収集するのが主になっています。
SNSやブログもいろいろ放置しているので、そのうち削除しないと。

もうすぐ一年も折り返し。
ひとつずつ、乗り越えていきましょう。