裏庭を工事中。うまくいくかな~。
uraniwa
http://sgtkaori.wixsite.com/uraniwa
2016年9月28日水曜日
過去の自分
大学院に入りたてのわたしは、理念的なことばっかり考えていて、研究会のレジュメとか、まったくダメダメだった…というのが自己評価。後輩にも、わたしはできのよい院生ではなかった、と常々語っていた。
だけれど、本棚を整理して、院生時代の初期のレジュメをみていたら、結構がんばってレジュメを作成している。先生方のコメントも別紙にまとめてあって、必死に考えていたんだなと。
先生方のコメントも、今見ると、とても興味深い。研究テーマに迷っていたわたしに、いろいろな方向性を提示してくれている。
過去の自分に対するイメージも、印象の強い一時期のスナップでしかないということか。過去の自分もなかなかがんばっていたのだ。
10年後も、そう言えるように。
だけれど、本棚を整理して、院生時代の初期のレジュメをみていたら、結構がんばってレジュメを作成している。先生方のコメントも別紙にまとめてあって、必死に考えていたんだなと。
先生方のコメントも、今見ると、とても興味深い。研究テーマに迷っていたわたしに、いろいろな方向性を提示してくれている。
過去の自分に対するイメージも、印象の強い一時期のスナップでしかないということか。過去の自分もなかなかがんばっていたのだ。
3/4
早いもので、9月も終わり。今年の3/4が、終わります。
昨年9月に着任してから今年の8月のお盆前まで猛ダッシュで駆け抜けて、9月後半に入って、少し、ふっと緩みました。
昨年9月に研究室を引っ越したときのままになっていた資料を何回かに分けながら片付けました。
ずっと片付けをしたいと思っていて、やってみれば数時間で終わる話…なのですが、他の優先すべき事がらの前に、その数時間のまとまった時間を捻出することができなかったということと、そのためのエネルギーがなかった、そんな一年だったんだなと思います。
逆に今、ふっと緩んで、その状態に少し戸惑っている自分も。でも、これは普通の状態なのだなと。今までが、ちょっとおかしかったのだと。
仕事に関係する文書を読み、理解し、執筆に関係する文書を読み、理解し、発表に関係する文書を読み、理解し…。それぞれ、できる範囲で読みながら作業をして、だけどじっくり考えながらということがなかなかできていなかった。
今日は久しぶりに、読みたい本を開いて、読んで、その読むスピードの遅さにびっくり。そして、注に挙がっている参考文献をたどっていたら、数ページしか進みませんでした。うむむ。
でも院生のときは、こうやって、しらみつぶしに、芋づる式に、文献をたどってたどって、収集して、コピーして、ようやく一つの論文や文献を読み終わっていたのでした。
読んで考えたものの範囲でしか、書けない。
そのためには、常に読んで、自分の思考の射程を広く持っておく必要がある。もちろん、仕事で読んでいるものも、無駄になるわけではないけれど。
ただ、自分がやりたかったこと、やりたいことは何なのか。優先すべき作業は何なのか。仕事に就いてから一年経って、再び考えて、そして前に進む時期なのでしょう。
安定した日常を求める自分と、そうではない世界の存在を知っている自分の間で、ときどき不安定になります。一方で、いろいろな「不安」や「欲」も出てくる。それは、なぜ?
大きな時代の流れからみれば、いろいろ、たいしたことない。常に考え続けること、それを文章にまとめること。後世に残すこと。時代に耐えうる思考を残すこと。そういうことなのでしょう。
昨年9月に着任してから今年の8月のお盆前まで猛ダッシュで駆け抜けて、9月後半に入って、少し、ふっと緩みました。
昨年9月に研究室を引っ越したときのままになっていた資料を何回かに分けながら片付けました。
ずっと片付けをしたいと思っていて、やってみれば数時間で終わる話…なのですが、他の優先すべき事がらの前に、その数時間のまとまった時間を捻出することができなかったということと、そのためのエネルギーがなかった、そんな一年だったんだなと思います。
逆に今、ふっと緩んで、その状態に少し戸惑っている自分も。でも、これは普通の状態なのだなと。今までが、ちょっとおかしかったのだと。
仕事に関係する文書を読み、理解し、執筆に関係する文書を読み、理解し、発表に関係する文書を読み、理解し…。それぞれ、できる範囲で読みながら作業をして、だけどじっくり考えながらということがなかなかできていなかった。
今日は久しぶりに、読みたい本を開いて、読んで、その読むスピードの遅さにびっくり。そして、注に挙がっている参考文献をたどっていたら、数ページしか進みませんでした。うむむ。
でも院生のときは、こうやって、しらみつぶしに、芋づる式に、文献をたどってたどって、収集して、コピーして、ようやく一つの論文や文献を読み終わっていたのでした。
読んで考えたものの範囲でしか、書けない。
そのためには、常に読んで、自分の思考の射程を広く持っておく必要がある。もちろん、仕事で読んでいるものも、無駄になるわけではないけれど。
ただ、自分がやりたかったこと、やりたいことは何なのか。優先すべき作業は何なのか。仕事に就いてから一年経って、再び考えて、そして前に進む時期なのでしょう。
安定した日常を求める自分と、そうではない世界の存在を知っている自分の間で、ときどき不安定になります。一方で、いろいろな「不安」や「欲」も出てくる。それは、なぜ?
大きな時代の流れからみれば、いろいろ、たいしたことない。常に考え続けること、それを文章にまとめること。後世に残すこと。時代に耐えうる思考を残すこと。そういうことなのでしょう。
2016年1月6日水曜日
新年明けました
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
2015年はいろいろなことがありました。博士論文の草稿を提出し、結婚式を挙げ(2月)、予備審査を迎え(4月)、学会発表があり(6月)、就職し(9月)、原稿を書き(10月)、本審査を終え、義父が亡くなり(11月)、学位授与となりました(12月)。
研究上で用いる姓も、旧姓から戸籍姓に本格的に移行しました。
いろいろな意味で、忘れられない一年になりました。
とりあえずの今年の大目標は以下の通り。
・博士論文を本にすること。
・英語で学会発表&論文を書くこと。
小目標は以下の通り。
・本を読むまとまった時間を確保すること。
・本棚を整頓して、いらないものを捨てること。
・仕事をやりすぎないこと。
2015年はいろいろなことがありました。博士論文の草稿を提出し、結婚式を挙げ(2月)、予備審査を迎え(4月)、学会発表があり(6月)、就職し(9月)、原稿を書き(10月)、本審査を終え、義父が亡くなり(11月)、学位授与となりました(12月)。
研究上で用いる姓も、旧姓から戸籍姓に本格的に移行しました。
いろいろな意味で、忘れられない一年になりました。
とりあえずの今年の大目標は以下の通り。
・博士論文を本にすること。
・英語で学会発表&論文を書くこと。
小目標は以下の通り。
・本を読むまとまった時間を確保すること。
・本棚を整頓して、いらないものを捨てること。
・仕事をやりすぎないこと。
2015年10月11日日曜日
恐ろしいもの
人の存在を消そうとする言葉。
いじめで生み出される言葉も、ヘイトスピーチで生み出される言葉も、もとをたどれば同じじゃないか。
それは表現の自由などではなく、明らかな暴力だろう。だって、言葉を投げつけた人の声を奪おうとするものだから。
自分の存在が消されようとする…本当に恐ろしいことだと思う。マイノリティが声を上げるのは、マジョリティが「存在を消す」言葉を発しているからだと思う。マイノリティを生み出すのは、マジョリティの無自覚な言葉じゃないのか。
これもいじめと同じ。いじめられるひとの属性なんて関係ない。いじめられるひとを生み出すのは、いじめる人だ。理由なんて、なんとでも言えるのだから。
2015年9月22日火曜日
もの忘れの一種
あることをやろうと思って、目的のものを探す。
(いらない写真を消そうと思って、携帯のフォトを開く。)
↓
目的のものを見つけるとともに、そういえば…と思って他のことをやり始める。
(写真を消していたら、他にも必要のない写真を見つけて次々と消し始める。)
↓
(途中、マイフォトとフォトストリームの違いが気になって調べだす。)
↓
(結局、今まで撮った写真をすべて整理する。)
↓
当初、何のためにそのことを始めたのかを思い出せない。
(写真の整理に時間を費やしたが、そもそもなぜやり始めたのかわからない。)
↓
そのうち思い出す。
(いらない写真を消すために始めた作業だったことに気付く。)
長期記憶はあまり保持されないけど、いよいよ短期記憶も…?
やりたい研究、あるいは研究を通じてやりたいこと
わたしがやりたいのは、ざっくりいえば「成員資格(メンバーシップ)」にかかわる研究です。(もっとよい表現はないだろうかと考えていますが…。)
簡単にいうと、誰がある集団の内側にいる(わたしたち/we=自)と認識されていて、誰がある集団の外側にいる(他者/others=異)と認識されているのかということです。もう少し具体的にいうと、本来は何も区別がないはずの「ひと」の集団を、さまざまな属性によって区別するということがどのように行われているのかを研究するということです。
わたしの着目している属性は、しばしば「生まれながらのもの」とみなされている、国籍、性別、人種、障害、エスニシティなどです。これらの属性は、その「ひと」に本来的に備わっているものであり、簡単に変えることはできないとみなされてきました。しかしこれまでの研究の蓄積において、このような「ひと」を分けるさまざまな区別は、ひとの認識によってつくられていることが指摘されてきました。例えば、「ジェンダー」という概念が提起されてきたのもその一つといえるでしょう。
これらの区別が、どのように生成され、維持され、また変容させられているのか。その前提にある考え方や、その境界線の歴史をたどることで、現在の区別の恣意性や構築性を明らかにできるのではないかと考えています。これまで読んだ本のタイトルで「びびっ」ときたのは、杉田敦『境界線の政治学』(岩波書店、2005年)や、佐藤郡衛、吉谷武志編『ひとを分けるものつなぐもの: 異文化間教育からの挑戦』(ナカニシヤ出版、2005年)です。
また、このような認識をもつことは、社会や集団の成員の多様性を受け入れるための一助になるのではないかと考えています。岡本智周『共生社会とナショナルヒストリー: 歴史教科書の視点から』(勁草書房、2013年)では、「社会的カテゴリ」(社会現象を整序する認識枠組み)をキーワードとして同じような問題を提起しています。
簡単にいうと、誰がある集団の内側にいる(わたしたち/we=自)と認識されていて、誰がある集団の外側にいる(他者/others=異)と認識されているのかということです。もう少し具体的にいうと、本来は何も区別がないはずの「ひと」の集団を、さまざまな属性によって区別するということがどのように行われているのかを研究するということです。
わたしの着目している属性は、しばしば「生まれながらのもの」とみなされている、国籍、性別、人種、障害、エスニシティなどです。これらの属性は、その「ひと」に本来的に備わっているものであり、簡単に変えることはできないとみなされてきました。しかしこれまでの研究の蓄積において、このような「ひと」を分けるさまざまな区別は、ひとの認識によってつくられていることが指摘されてきました。例えば、「ジェンダー」という概念が提起されてきたのもその一つといえるでしょう。
これらの区別が、どのように生成され、維持され、また変容させられているのか。その前提にある考え方や、その境界線の歴史をたどることで、現在の区別の恣意性や構築性を明らかにできるのではないかと考えています。これまで読んだ本のタイトルで「びびっ」ときたのは、杉田敦『境界線の政治学』(岩波書店、2005年)や、佐藤郡衛、吉谷武志編『ひとを分けるものつなぐもの: 異文化間教育からの挑戦』(ナカニシヤ出版、2005年)です。
また、このような認識をもつことは、社会や集団の成員の多様性を受け入れるための一助になるのではないかと考えています。岡本智周『共生社会とナショナルヒストリー: 歴史教科書の視点から』(勁草書房、2013年)では、「社会的カテゴリ」(社会現象を整序する認識枠組み)をキーワードとして同じような問題を提起しています。
わたしが着目しているのは、このうち「国民」と「非-国民(外国人)」を分ける境界線です。現在は、「シティズンシップ」をキーワードとして論じられることが多くなっています。シティズンシップは、成員資格(メンバーシップ)の一類型といえるでしょう。
教育に関心をもつ身としては、とくに教育(政策の立案)の場面において、その認識がどのように生じているのか、またどのように政策として具体化されていくのか。その背景には、どのような要因があって、強化されたり、弱められたりするのかを明らかにしたいと考えています。
教育に関心をもつ身としては、とくに教育(政策の立案)の場面において、その認識がどのように生じているのか、またどのように政策として具体化されていくのか。その背景には、どのような要因があって、強化されたり、弱められたりするのかを明らかにしたいと考えています。
研究上のキーワードは、「シティズンシップ」、「ナショナリズム」、「(多文化)共生」で、現在は、イングランドの事例に着目しています。
しかし、この研究もまだまだ道半ば…。
んー!がんばろう!
んー!がんばろう!
「研究する」ときの立ち位置
以下、O先生の最近のコメント。
このコメント、気になったのでちょっと考えてみる。先生は何から距離を置こうとしているのか。
とくに気になったのは、最後に挙げられている側面。これは教育(政策)にかかわる研究において、常に強調されていること。「エビデンス・ベース(根拠に基づく)」というもの。なぜ、ここからも距離を置こうとするのだろう。
前者の態度には「研究<自分」、後者の態度には「事実<規範」という共通点がみいだせるように思う。両者の態度は、現実に生じていることを描写するという作業を行うとき、その描写をゆがめる要因になりうるのではないか。つまり、自分のみたいようにものをみてしまったり、こうあったらいいなという理想を優先させてしまう。
自分をどこに置くのか、現実をどうみるのか。
追記:
先日、J-waveに出ていた小曽根真さんが音楽と自分の位置についてお話しされていたのを聞いて、研究と似てるところあるな~と思いました。
とりあえず、社会学の「言ったモン勝ち」「こんなこと考えている俺ってかっこいいだろ」の側面や、教育学の「こうあるべきだ」「エビデンスに基づいた政策的インプリケーションですよ」の側面には、もうあんまりお付き合いできないところで、お仕事していくことになるのかなと思います。
このコメント、気になったのでちょっと考えてみる。先生は何から距離を置こうとしているのか。
とくに気になったのは、最後に挙げられている側面。これは教育(政策)にかかわる研究において、常に強調されていること。「エビデンス・ベース(根拠に基づく)」というもの。なぜ、ここからも距離を置こうとするのだろう。
前者の態度には「研究<自分」、後者の態度には「事実<規範」という共通点がみいだせるように思う。両者の態度は、現実に生じていることを描写するという作業を行うとき、その描写をゆがめる要因になりうるのではないか。つまり、自分のみたいようにものをみてしまったり、こうあったらいいなという理想を優先させてしまう。
自分をどこに置くのか、現実をどうみるのか。
追記:
先日、J-waveに出ていた小曽根真さんが音楽と自分の位置についてお話しされていたのを聞いて、研究と似てるところあるな~と思いました。
2015年9月19日土曜日
楽しいメールを受け取りたい
すでに、ワーカホリック?
すぐにメールの確認をしてしまう。仕事が気になる。
短期的にこなすことに時間を費やしている。
よくない。これはよくない。
一年半前の感覚を思い出す、今日この頃。
バランス、バランス。
すぐにメールの確認をしてしまう。仕事が気になる。
短期的にこなすことに時間を費やしている。
よくない。これはよくない。
一年半前の感覚を思い出す、今日この頃。
バランス、バランス。
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