2010年8月30日月曜日

中川正春文部科学副大臣「攻めの文化行政」

【大臣会見】
・中川正春文部科学副大臣記者会見録(平成22年7月21日)
http://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/1296064.htm

※記者からの文化庁を中心とした(日本)文化の海外発信についての質問に対して:

副大臣)
…私自身の問題意識として、文化庁のこれまでの行政はどちらかというと守りというか、文化を保存していく、それをじっくり生かしていくというところに重きを置いた行政だったのかなという評価なんです。それを思うと、逆に攻めの文化行政というか、文化発信をして、それが観光に結びついたり、地域の産業化に結びついたりしていって、私たちの新しいライフスタイルの中にそれが拡散されていくというか、そういうような形の文化行政というのもあってしかるべきなんじゃないかと、それが欠けていたんじゃないかという思いがしまして、攻めの文化行政という思いを込めて行政を出発させていたという経緯がありました。

コメント:
「文化」の捉えかたに着目。

2010年8月27日金曜日

コリアNGOセンター『News Letter』

※『解放教育』<特集=多文化教育のいま> 2008年12月
榎井縁「『多文化教育のいま』を考えるにあたって」(pp.7-23.)から芋づる。

●8/9号(2006年8月25日発刊)
<特集=多民族多文化共生と日本>
「在日外国人住民も、地域社会の構成員に!
 政府の多文化共生施策の提言を総務省がまとめる」(pp.24-27.)

●17号(2008年7月25日発刊)
<特集=現場から構想する多文化共生>
「座談会 市民・NPOの対抗軸は何か―『人権』・『地方分権』・『アジア的視野』がカギ」(pp.6-17.)
(コーディネーター:宋悟/金光敏、田村太郎、戴エイカ)

●19号(2009年2月15日発刊)
<特集=多民族共生教育フォーラム2008大阪>

コメント:
・NGOからみた総務省報告書の評価(8/9号)。
・座談会(17号)とフォーラム(19号)でも総務省報告書が話題に上っており、NPOの立場から研究会に参加した田村さん、元総務省自治行政局国際室長で研究会に関わった山崎さんの発言が興味深い。
・「戴 『多文化共生』という言説を吸収している政府側の人たちの認識の中に、旧植民地出身者や『日本国民』の民族的・文化的背景の多様性に対する視点もなく、かつ『戦略性』もないことは逆に怖いことではないかと思います。潜在的な思考があるように思えます。それが広く共有されているとしたら、意図的ではないがゆえに把握しにくく、批判したり対処したりするのが難しい。」(17号、p.12)
・政策の戦略性のなさ、意図的ではないがゆえの批判のしにくさ、権力が可視化されないことの問題性を指摘している点が興味深い。政策立案のプロセス、あるいは組織上の問題点。

2010年8月19日木曜日

『解放教育』<特集=シティズンシップ教育>

●2010年9月
<特集=シティズンシップ教育は何を提起するのか
    ~シティズンシップ教育にかかわる資料と解説>

民主主義的シティズンシップ教育と人権教育に関する欧州評議会憲章
二一世紀をめざすシティズンシップ教育―ユネスコ
児童の権利に関する条約(抜粋)
シティズンシップ教育と経済社会での人々の活躍についての研究会報告書(抜粋)―経済産業省


[8/19―修正]

『解放教育』<特集=多文化教育のいま>

●2008年12月
<特集=多文化教育のいま>

榎井縁「『多文化教育のいま』を考えるにあたって」(pp.7-23.)

総務省の「多文化共生推進プログラム」について、「第1回目の研究会が開かれる直前に対象者が限定されたという経緯がある。すなわち、先住民族、旧植民地出身者、オーバースティの問題がその対象から外され、日本語でコミュニケーションできない人たちに共生の対象が限られた」(p.7)。ここでは、どのような経緯でそうなったのかは述べられていない。しかし、「教育の分野で今この『多文化共生』の波に乗ることは、積み上げてきたものを絡みとられてしまうような危険性を感じている。〔それは〕歴史も人権も抜きにして、沢山いるのですから一緒にやりましょうという、マジョリティ側を問わない発想」(p.8)があるからだという。「『多文化共生教育』にしても、旧植民地出身者の教育権を保障する運動をしてきたものたちが、資料で確認される限り1991年から今後増えるであろう外国人の子どもたちを想定して戦略として使用するようになったことば」なのである。
また多文化教育のアプローチとして、①マジョリティ側の認識変革に重きを置いたもの(life style approach)と、反差別の視点にたったマイノリティ側の権利保障を推進するもの(life chance approach)を挙げた上で、ニューカマーの教育問題を権利保障の問題といち早く捉えたのは、在日コリアンの教育運動にかかわってきた教育実践者や研究者たちであったという(pp.9-10.)。しかし、「教育を受ける権利の主体として外国人の子どもが認識されなければそれは放置されていても容認されうる」(p.12)。
その一方で、日本人の子どもたちへのアプローチは、「足元の文化的多様性の認識や日本の学校文化の変容をめざす、多文化教育」とは程遠い方向に向かっているようすが伺えるという(p.16)。

コメント:
・現在の日本の多文化共生政策に対する教育分野からの視点。コリアNGOセンターから発行されている雑誌でも座談会が組まれたという(雑誌発注―8/19)。
・マジョリティ/マイノリティという枠、日本人/外国人という枠で論じてしまうことの限界。その中の多様性をどのように認識するのか。
・同等の権利を保障することと、差異を承認すること(C. テイラー)の重要性。その際、承認される「差異」とは何か。誰がその基準を決定しているのか。それはどのような根拠によって正当化されているのか。

[8/19―修正]
[8/27―著者、題目追加]

2010年8月17日火曜日

カール・セーガン『人はなぜエセ科学に騙されるのか』

カール・セーガン(Carl Sagan)/青木薫(訳)『人はなぜエセ科学に騙されるのか〈上・下〉』(新潮文庫)、新潮社、2000年.

※実家に帰った際に兄からすすめられた本。久々の文庫本。
※『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』新潮社、1997年.
 『悪霊にさいなまれる世界―「知の闇を照らす灯」としての科学』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)、早川書房、2009年.

読んだ章:
〈上〉はじめに/第1章 いちばん貴重なもの/第2章 科学と希望
〈下〉第25章 真の愛国者は問いを発する

コメント:
「科学とは何か」ということを明快に述べた本。著者は天文学(理系)の研究者なので、これを社会科学におきかえるとどのような語り方ができるのだろうか、と思った。そういえば、少し前に文科省でも検討が行われていたことを思い出す。平成21年ということは…2009年、昨年だ!時間のあるときに残りの章も読もう。

文科省HP
人文学及び社会科学の振興について(報告)-「対話」と「実証」を通じた文明基盤形成への道―(http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/21/02/__icsFiles/afieldfile/2009/02/09/1236243_2.pdf

[8/18―修正]

姜尚中、テッサ・モーリス-スズキ『デモクラシーの冒険』

姜尚中、テッサ・モーリス-スズキ『デモクラシーの冒険』(集英社新書)、集英社、2004年.

要旨:
「グローバルな権力が国民国家の範囲を超えている」(p.231)中で、どのようにデモクラシーを再興するのか。その一方で「民主化と非民主化の同時拡大」(p.174)をどのように考えていくのか。「消費者」としてではなく「デモス」としての行動のすすめ(あとがき)。

・ジョルジュ・アガンベンも「住民アプローチ」を提起している(pp.175-176.)ようである。

2010年8月12日木曜日

近藤敦「日本における外国人のシティズンシップと多文化共生」

近藤敦「日本における外国人のシティズンシップと多文化共生」(pp.119-151.)
辻村みよ子・大沢真理編『ジェンダー平等と多文化共生―複合差別を超えて―』東北大学出版会、2010年.

※東北大学グローバルCOE(GCOE)「グローバル時代の男女共同参画と多文化共生」プログラム
「多文化共生社会におけるジェンダー平等」研究プロジェクトの共同研究の成果
http://www.law.tohoku.ac.jp/gcoe/

構成:
1 はじめに―新たな政策用語としての多文化共生/2 外国人のシティズンシップの展開/3 憲法と国際人権諸条約/4 入管法と国籍法/5 多文化共生の法制度の指標:政治・経済・社会・文化・法的共生/6 おわりに―ジェンダー平等と多文化共生

第1節:
・目的(p.119)
在住外国人の法制度をめぐる日本の特徴と問題を明らかにし、多文化主義的な法制度に向けた課題(の抽出?)を諸外国との対比のうちに行う。
・多文化共生/共生という用語―訳の例示(p.119)
multicultural living-together, multicultural conviviality, multicultural coliving, multicultural coexistence, multicultural symbiosis/living-together, Zusamenleben,samenleven, vivre ensemble
「共生は、異なる人々の平等な参加を意味する日本語であり、ヨーロッパ諸国でいう『統合』に近い意味をもつ。多文化共生は、カナダやオーストラリアなどの多文化主義とは必ずしも一致するものではない」
 cf) Yamawaki(2008)
「多文化共生という用語は、日本オリジナルなものであるが、類似の表現がヨーロッパ諸国にもないわけではない。…また、統合と共生は、一定の互換性を有する概念ともいえる。」(p.120)
 ex) 政策の対象の広がり方
「多文化共生政策という場合は、同化政策としての意味合いをもたせにくく、多文化主義的な統合政策を意味する。多文化と共生は2つの内容をもっている。共生は統合とかなりの程度重なるものであり、市民的・社会的・経済的・政治的権利の保障を内容とし、多文化の方は文化的権利の保障を内容とすると考えることができる。」(p.121)
・日本の多文化共生政策の理念―総務省(p.121)
スウェーデンの多文化主義的な統合政策の3つの目標との共通性がある
(①選択の自由/②平等/③協同)

第2節:
1979年 国際人権規約の批准
1981年 難民条約への加入
    …「内外人平等原則」に基づく社会保障法の改正
1985年 女性差別撤廃条約の批准
    …父系血統主義から父母両系血統主義の国籍法に
1990年 改正入管法の施行
    …日系人とその家族に永住類似の在留資格「定住者」
     ※更新が必要・在留活動に制限なし(就労可)
1991年 入管特性法
    …旧植民地出身者とその子孫に「特別永住者」の地位

第3節:
(1)外国人に保障される「権利の性質」を判断する基準を何に求めるのか
(2)憲法と国際人権諸条約との整合性をどのように担保するのか

第4節:
(1)在留資格が細分化されていて、職業の自由の制約が大きい
(2)永住許可の居住要件が帰化の居住要件よりも長く設定されているのはなぜか
「法務局の入国管理局と国籍事務を担当する民事局との調整がなされず、総合的な移民政策(入管政策と統合政策)の担当部局を欠く組織的な要因にあるものと思われる。」(p.133)
(3)届出と生地主義の要素が乏しく、複数国籍防止が原則

第6節:
「2003年に、…『多文化共生社会基本法』の提言を行ったことがある。その研究会の折に、…多文化共生を広く捉えるかどうかを議論したことがある。結局は、マイノリティの幅広い差別禁止の問題は、当時、国会で審議されていた『人権擁護法案』に譲り、『多文化共生社会』の定義は、もっぱら外国人と民族的少数者の社会参画の問題に焦点を当てることにした。この定義が、総務省の推進プランをはじめ、政策用語として使われつつある」(p.144)
 cf) 外国人との共生に関する基本法制研究会『多文化共生社会基本法の提言』2003年(http://www.kisc.meiji.ac.jp/~yamawaki/etc/kihonho.pdf

コメント:
第6章の記述に着目。日本の多文化共生政策がその対象を限定した一つの理由となるかもしれない。政府側に都合のよい解釈となった可能性もある。

[8/18―修正]

2010年8月11日水曜日

宮島喬「『多文化共生』を論じる」

宮島喬「『多文化共生』を論じる(上・下)“文化の違い”の承認とは」『書斎の窓』有斐閣、2009年11月号(No.589)、pp.53-59./2009年12月号(No.590)、pp.57-62.

※岩渕(2010)より芋づる。

引用・要約:
・「制度や権利を多文化に向けて開く」(上、p.54)
・多文化共生は「れっきとした和製語で、国際会議などで使おうとすると、訳語に窮してしまう」(下、p.57)
 ex)Kondo(2008)
・総務省「多文化共生推進プログラム」について、「90年代前半に行われた議論に比べ、外国人や外国につながる人々が固有の文化的要求やアイデンティティの担い手とは捉えられていず、日本社会・文化に適応すべき存在と位置づけられていて、視点の違いを感じさせる」(下、p.59)
・「ローカルシティズンシップ拡大の論は足踏みしているとの感をまぬがれない」(下、p.60)
 ex)帰化を要件としない定住外国人の地方参政権
・「『日本人』のイメージをもっと押し広げ、日本語よりは○○○語のほうが自然といった、出自の異なる、またはハイブリッドな人々をも『同じ日本人』と考えていくこと、この意識の切り替えは日本人自身の課題ではないだろうか。」(下、p.62)

コメント:
・著者が提案する具体的な施策=「母語・母文化保持」、「定住外国人の地方参政権」、「教員採用、その他の地位への登用」など。
・著者の提案するアプローチは、「日本人/外国人」という枠組みを維持する点が限界となるかもしれない。このアプローチの特徴は?

テッサ・モーリス=スズキ『批判的想像力のために』

テッサ・モーリス=スズキ『批判的想像力のために―グローバル化時代の日本』平凡社、2002年.

※岩渕(2010)、塩原(2010)の引用から芋づる。

メモ:
1996~2002年に発表された著者の論文集。9.11についての記述もある。

構成:
Ⅰ 誰が語るのか/Ⅱ 開かれた日本のために/Ⅲ グローバリゼーションとデモクラシー

コメント:
・筆者の「1899年体制」(p.143-148.)に着目。この血統主義に基づく国籍法が日本国民=日本人(民族)という「想像」を常に喚起してきたものといえるのではないか。
・「多国籍企業と国民国家は補完関係にあったのである」(p.176)という記述は、サッセン(1999)と共通している。
・「シティズンシップと多文化主義」(pp.236-238.)ではT.H.マーシャルのシティズンシップ論が見落とした論点として、第4のレベルでのシティズンシップ(文化的シティズンシップ)に言及している。さらに、それが政治論争の鍵となり「多文化主義」(文化的多様性の公認/文化的多様性が富、地位、権力の永続的不平等性の理由や根拠になることを拒否する試み)として知られる政治戦略となったという。

2010年8月9日月曜日

岡本智周「共生教育学が目指すこと」

岡本智周「わたしの提言 共生教育学が目指すこと」『筑波フォーラム』第74号、2006年11月、pp.127-129.

共生社会論(p.128)
・人間の差異を生み出す社会制度に光を当て、今日的状況におけるその制度の妥当性を検討する
・人間のカテゴリの再検討

2つのアプローチ(p.128)
①旧来の人間カテゴリを維持しながら、その意味内容を修正し多様化する
②あるカテゴリ自体が組み直され、相対化/無化される

筆者の立場(p.129)
・①のアプローチは、社会的リスクに対する基本的な対処策には成り得ないのではないか
・カテゴリや制度自体への問い直しがない方策は、問題を解決したかに見えてまた生成させていくマッチポンプになりかねない

筆者の主張(p.129)
・自らが掲げる人間のカテゴリについて自覚的であり、かつその再検討を不断に継続する営みは可能

コメント:
・人間のカテゴリ化に対する2つのアプローチの区別に着目したい。これは、カテゴリ化自体を否定するものではない。あくまで「組み直し」が前提となっており、その際に旧来のカテゴリを用いるのか、それとも新しいカテゴリを創り出すのかの違いである。ここで新しいカテゴリを用いる場合、旧来のカテゴリは相対化/無化される。
・旧来のカテゴリを「無化」した場合には、再びそれが組み直されることになるだろう。
・旧来のカテゴリを「相対化」した場合には、それらのカテゴリの併存状態が続くことになるのだろうか。また、それは多元的な差異の認識を可能にするものとなるのか。
・「表象の政治」と「権利・制度をめぐる政治」の関連をどのように分析するか。

[8/11―コメント追加]

岡本智周「多文化教育と日系アメリカ人のナショナルアイデンティティ」

岡本智周「多文化教育と日系アメリカ人のナショナルアイデンティティ」『筑波教育学研究』第4号、2006年、pp.47-63.

枠組み:
国民国家論におけるナショナリズムの2段階(p.50)
第1次ナショナリズム
 =国民という単位で世界を分断して認識するその認識そのもの(村上泰亮)
第2次ナショナリズム
 =自らが属する特定の国民を尊重する観念および運動(丸山眞男)

「20世紀末において、多文化主義に基づく歴史教育は、それがなおナショナルな枠組みを維持するがために、エスニシティの相対化によってナショナリティそのものを浮かび上がらせる論理を提示する」(p.58)
「社会の構成要素の多様性を十全に表現することを目指す多文化教育の観点からすれば、ナショナリティへの注目に帰結する教育は、本来解決すべき問題を自ら生み出しているという意味で、差別構造のマッチポンプになりかねない。ナショナリティの区別は国内に持ち込まれれば、エスニシティの区別に転化するからである。」(p.59)

関連文献:
この論文で述べられている「国民」像の組み直しの限界について、岡本(2008)では「多元性を称揚する一元性の問題」としてまとめられている。解決の方向性としては、①ナショナルな枠組みそれ自体の解消(ポスト・ナショナル)、②ナショナルな枠組みの徹底的な意識化(メタ認知)が提示されている(pp.120-121.)。

参考)岡本智周『歴史教科書にみるアメリカ―共生社会への道程』学文社(早稲田社会学ブックレット)、2008年.

コメント:
・ここで「第1次ナショナリズム」とされている段階は、「方法論的ナショナリズム」と似ているのではないか…要検討。
・国家というアクターを前提とする政策研究では、どのように方法論的ナショナリズムを回避することができるのか(研究を通じて第1次ナショナリズムを再生産しないようにするために)。
・国家以外のアクターに着目することでその枠組みを相対化することが考えられる?

2010年8月6日金曜日

レジュメのきり方

レジュメをまとめる際に必要なことについて。考えられるいつくかのステップ。(先日、読書会に向けてレジュメの準備をした際、自分の言いたいことが十分にまとめられなかったという反省に基づく…。)


①自分の問いについて考える(Question)
 ・キーワード(主要概念)を見極める
 ・どのような方法で問うのか

②文献・論文を選ぶ(Scanning)
 ・文献執筆の背景について知る
  ―はじめに、あとがき、索引を参照
 ・論文が掲載されている雑誌の特徴について知る
  ―母体となる学会・研究会、編集者、創刊号(趣旨)を参照

③文献・論文を読む(Reading)
 ・著者の主張(問い、目的、結論)とその論拠を押さえる
  ―誰のどのような理論を出発点としているのか(Theory)
  ―概念をどのように定義しているのか(Definition)
  ―理論をどのように擁護あるいは批判しているのか(Logic)
  ―根拠となる資料は何か(Resource)

④自分自身の理解を深める
 ・自分で説明できない概念についての知識を深める
 ・必要な場合は、引用元にあたる

⑤再び自分の問いについて考える
 ・著者の議論のどのような点が興味深かったか、それはなぜか
 ・自分の(これからしようとする)主張との違いはどこか

※授業での発表の場合は①・②が省略される。なぜその文献・論文を読むのかということについて、シラバスや授業の初回で説明がなされるはず。


コメント:
・こう考えてみるとレジュメの作成とは手間のかかること…でもその積み重ね!
・自分の傾向として③と④に力を入れてしまいがち。議論の前提となる基本的な事項についての知識が足りないからだと思われる。
・そうはいっても、やはり⑤までたどり着かないとレジュメとしてまとめたことにはならないだろう…レジュメの作成は「きる」というし!
・レジュメのまとめ方について書こうと思ったのに、終わってみれば読書法(「SQ3R」)に近いものになっている。

2010年8月4日水曜日

大澤真幸『ナショナリズムの由来』

大澤真幸「予告編」『ナショナリズムの由来』講談社、2007年、pp.9-48.

構成:
ゴミとしての芸術/〈帝国〉/国民化・民族化/レーニンのショック/多文化主義の「欺瞞の欺瞞」/アメリカ・ナショナリズム/「笑い」による相対化?/資本主義

コメント:
多文化主義に関する記述がいまいち理解できない。多文化主義と植民地の関係について西川長夫氏が指摘していた点をもう一度参照してみるのがいいのかもしれない。

[9/13-構成追加]

2010年8月2日月曜日

『自治体国際化フォーラム』

●2008年5月
<特集=地域の多文化共生の取り組み>
山脇啓造(明治大学教授)
   「地域における多文化共生の推進に向けて」(pp.2-4.)
田村太郎(多文化共生センター理事)
   「多文化共生社会の形成と地域の取り組みのこれから」(pp.4-5.)

●2007年1月
<特集=多文化共生のあり方と現状>
時澤忠(総務省自治行政局国際室長)
   「国等における多文化共生推進の取組について」(pp.5-7.)
山脇啓造(明治大学教授)
   「地方自治体と多文化共生」(p.8-11.)
村田翼夫(大阪成蹊大学教授)
   「多文化共生の教育」(pp.11-15.)
井口泰(関西学院大学)
   「経済・労働市場の変化と外国人政策の改革」(pp.15-20.)

●2005年5月号
<多文化共生のとびら>
山脇啓造(明治大学教授)
   「二〇〇五年は多文化共生元年?」(pp.34-37.)

●2004年6月号
<国際化の潮流>
宮島喬(立教大学教授)
   「『国際』と『多文化』の間」(pp.16-18.)


コメント:
山脇氏の主張を理解するのに役立つのでは…要検討。

日本における「多文化共生」政策(総務省・内閣府)

2005年6月 総務省「多文化共生の推進に関する研究会」設置
2006年3月 総務省『多文化共生の推進に関する研究会 報告書
         ~地域における多文化共生の推進に向けて~』
2006年3月 総務省自治行政局国際室長
         各都道府県・指定都市外国人住民施策担当部局長宛通知
         「地域における多文化共生推進プランについて」
2006年6月 総務省「多文化共生の推進に関する研究会」(継続)
2007年3月 総務省『多文化共生の推進に関する研究会 報告書2007』
         ・防災ネットワークのあり方
         ・外国人住民への行政サービスの的確な提供のあり方
2008年度 総務省「多文化共生事例集」のとりまとめ
2009年1月 内閣府「定住外国人施策推進室」設置
            「定住外国人支援に関する当面の対策について」
2009年3月 内閣府「定住外国人施策推進会議」設置
2009年4月 内閣府・定住外国人施策推進会議
            「定住外国人支援に関する対策の推進について」
2009年7月 住民基本台帳法の一部を改正する法律
            (8日成立、15日公布、3年以内に施行)
2009年9月 総務省「多文化共生の推進に関する意見交換会」設置
2010年3月 総務省『多文化共生の推進に関する意見交換会 報告書』

総務省『多文化共生の推進に関する研究会 報告書』

総務省『多文化共生の推進に関する研究会 報告書
~地域における多文化共生の推進に向けて~』2006年3月

※2005年6月「多文化共生の推進に関する研究会」設置(総務省)

構成:
はじめに/第1章 総論/第2章 多文化共生推進プログラムの検討/おわりに

引用:
・地域における多文化共生の定義
「国籍や民族などの異なる人々が、互いの文化的ちがいを認め合い、対等な関係を築こうとしながら、地域社会の構成員として共に生きていくこと」(p.5)
・検討対象
「定住傾向にあるが日本語によるコミュニケーション能力を十分に有しない外国人住民に関わる課題」(p.6)
・基本的考え方
「外国人住民も地方自治法上の『住民』であり、また、『国際人権規約』、『人種差別撤廃条約』等の要請から、基本的には日本人と同等の行政サービスを受けられるようにすることが求められる。」(p.10)
・支援の柱(第2章)
①コミュニケーション支援(情報の多言語化、日本語および日本社会に関する学習)
②生活支援(居住、教育、労働環境、医療・保険・福祉、防災)
③多文化共生の地域づくり(地域社会に対する意識啓発、外国人住民の自立と社会参画)
・企業の役割(pp.45-46.)
企業の社会的責任(CSR)の履行、企業に求められる具体的対応(労働関係法令等の遵守)
・研究会構成員(研究者)
山脇啓造氏(明治大学商学部教授)
柏崎千佳子氏(慶應義塾大学経済学部助教授)

コメント:
・「多文化共生」として日本人住民と外国人住民の共生を、「外国人住民」としてとりわけニューカマー(主として1980年以降に日本にやってきた外国籍の人々)を想定した報告書。
・ニューカマーは不安定な労働環境にいる場合が多いため、企業の社会的責任について言及している点は重要だろう。企業内での「多文化共生」についても言及があってもよかったのではないか。
・地域における多文化共生の定義にみる「対等な関係」はどのようなものか。報告書を見る限り、それは「基本的には日本人と同等の行政サービスを受けられるようにすること」と言い換えられているようにみえる。
・報告書に対する批判については岩渕(2010)を参照予定。
・山脇氏と柏崎氏の基本的主張については今後の課題。