2010年10月27日水曜日

地球はみんなのもの?

確かその同じ先生の授業で、小学校5年生の時に「地球はみんなのものである」について考えたことも思い出した。これは論理ゲームのようなもので、どの時点の言明が間違っているのかを当てるクイズとして出題された。

それは「地球はみんなのものである」から始まり、最終的には「あなたのものはわたしのものである」に落ち着くという展開だったと思う。

この時「正解」だったのは、一番最初の言明が間違っているということだった。つまり、「地球はみんなのものである」が間違いだったのである。「地球は誰のものでもない」のだ!このとき非常に驚いた記憶がある(だから、今でも覚えているのだろう)。

今思えば、これは「所有」という概念について考えていたのだなぁ。深いなぁ。

わからないことが、わかる

そういえば、小学校5年生のとき先生にほめられたことがあった。その理由は「わからないところが、わかった」からである。具体的な授業内容は覚えていないが、ほめられてなんだか気恥しかったのを覚えている。

学校ではしばしば「わかった!」のかどうか、という最終結果が求められる。「わからないところが、わかった!」はそのひとつ前のプロセスである。しかし、その前段階に至ったところで先生がほめてくれたのである。確か「わからないところがわかったひとは、わかるに一歩近づいたんだよ」という趣旨のことを聞いた気がする。

今考えると、この「わからないところが、わかった!」は、漠然とした疑問を具体的な「問い」へと組み替えるための重要な作業なのではないかと思う。先生はそのことを知っていたのかもしれない。

Y先生、元気かなぁ~。

2010年10月25日月曜日

三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』

三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)、講談社、1968年.

構成(pp.1-121.):
1 世界のありかたをどう見るか/2 弁証法はどのように発展してきたか/3 「対立物の相互浸透」とはどういうことか(※〈3〉認識論と弁証法――その一、絶対的真理と相対的真理および真理と誤謬との関係)

引用:
「真理は真理、誤謬は誤謬でどこまでいっても変わらない、この考えかたは形而上学です。真理は一定の条件において誤謬に転化するという媒介関係を認める、これが弁証法です。」(p.117)

コメント:
・弁証法が英語で'dialectic'であることを知り、それをなんとなく不思議に思い、以前この新書を買ったことを思い出して再読。
・買った当時も読んだが、ほとんど理解不可能だった…。今回は以前よりは理解できていると思う(理解できていない箇所にある程度自覚的であるため)。
・引用したのは、ある一定の条件下での真理が拡大して適用されることによって誤謬となることを説明した箇所。その「一定の条件」が何なのかを常に押さえる必要がある。

2010年10月21日木曜日

苅谷剛彦『知的複眼思考法』

苅谷剛彦『知的複眼思考法』講談社、1996年.

構成:
序章 知的複眼思考法とは何か/第1章 創造的読書で思考力を鍛える/第2章 考えるための作文技法/第3章 問いの立てかたと展開のしかた―考える筋道としての〈問い〉―/第4章 複眼思考を身につける

コメント:
・自分の頭で考える力を身につけるための基本的な方法について述べたテキスト。これまで自分で取り組んできたことを振り返りつつ、確認しつつ読むことができた。重要なポイントはいくつもあったが、印象に残った点をいくつか挙げたい。
・まず、テキストを読む際には「著者と対等な立場に立つ」ということ。これは、「〔著者が―引用者〕ほかの可能性の中でそれぞれのことばや表現が選ばれていった末に、目の前の活字になっている」(p.53)ということを理解することである。(最近は書くことに苦悩していたので、ひしひしと身にしみます…。)いろいろな表現がある中で、どのような言い回しが一番ふさわしいのか。そのような思考錯誤の「テキスト」の集積なのだと思うと、文献に対する姿勢も変わってくる。
・次に、第3章の「問いの立てかたと展開のしかた」である。漠然としたかたちの疑問をどのように「問い」とするのか。ある意味で無限の可能性が存在する中で、どのような問題として切り取るのか。そのプロセスの一端が示されていて参考になった。自分自身の研究についても、今後もっと意識してやっていきたいと思う。
・もうひとつは、第3章で取り上げられていた「概念」についての説明である。「概念」「ケース」「定義」と区別した上での説明がとてもわかりやすかった。
・最後に再認識させられたのは、文章として考えをまとめることの重要性である。「書くという行為は、もやもやしたアイデアに明確なことばを与えていくことであり、だからこそ、書くことで考える力もついていく」(p.86)という著者の指摘はごもっとも。普段はどうしても読むことが中心となってしまって、じっくりと書く時間を確保できていない気がするので、アウトプットすることを心がけていきたい(このブログを始めたのもその一環だったし!初心忘れるべからず)。
・今後も折をみて参照したい文献。

2010年10月19日火曜日

教材の電子化の帰結とは?

先日のNHKのとある番組で教材の電子化が取り上げられていた。

日本はICTに関する教育が遅れているという論調が大半で、海外(韓国やフランス)では一人に一台パソコンが与えられるようになる、という事実が日本の危機を伝えていた。

しかし、果たして教材の電子化をすすめることがそのままICTに関する教育につながるのだろうか。インターネットなどの電子メディアに関するリテラシーの涵養と、教材の電子化がもたらすであろう帰結(おそらく学校の市場化)をどのように考えればよいのだろうか。

参考:
「学校の内側と外側の間の温度差がほとんどなくなってしまった。『外部は存在しない。世界はすべてあますところなく〈市場〉に埋め尽くされている』というのが現在、学校で日々子どもたちが実感させられていることです。彼らが欲望することを教えられているのは『商品』であり、もはや『叡智の境位』ではありません。」(内田樹『街場の教育論』ミシマ社、2008年、p.185)

2010年10月18日月曜日

福田歓一『近代の政治思想』

福田歓一『近代の政治思想―その現実的・理論的諸前提―』(岩波新書A2)岩波書店、1970年.

●三 近代政治思想の原理構成(pp.95-160.)

引用:
・理性について
「この理性は人間をはなれてその絶対性を誇るような理性ではなくて、どこまでもなまみの人間にになわれ、その生存の欲求と結びついた、いわば感性と接点をもった人間の能力でありました。」(p.159)

コメント:
・ルソーの人間観。感性と切り離された理性ではなく、それと結びついたものとしての理性。それは、「社会の主人として政治に参加することによって、理性にまで高められる」(p.158)ものであること。
・『エミール』も読み直そう。

内田樹『街場の教育論』

内田樹『街場の教育論』ミシマ社、2008年.

引用:
・教育改革の主体は私たちである/教師たちをどう支援するか(pp.16-22.)
・「競争」ではなく「協力(コラボレーション)」(pp.103-109.)
・合い言葉は、「知りません。教えてください」(p.121)

コメント:
「絶対おもしろいに違いない!」と思って読むのを避けてきた(笑)のですが、昨日再びめぐりあったところで購入。そしてその日のうちに読んでしまいました。読みやすいなぁ。そして、勇気づけられる。ぼんやりと考えていたことが言語化される。んー、すごいなぁ。

余談:
ミシマ社という出版社をはじめて知りました。本に対する愛を感じました。

2010年10月14日木曜日

水山光春「シティズンシップ教育」

水山光春「第3章 シティズンシップ教育―『公共性』と『民主主義』を育てる」杉本厚夫、高乗秀明、水山光春著『教育の3C時代―イギリスに学ぶ教養・キャリア・シティズンシップ教育』世界思想社、2008年、pp.155-227.

構成:
1 子どもたちの現状と民主主義の誤解/2 イギリスにおけるシティズンシップ教育/3 日本におけるシティズンシップ教育/4 これからのシティズンシップ教育

※コメント等は後ほど。

2010年10月13日水曜日

ルソー『社会契約論』

ルソー『社会契約論』岩波文庫・青623-3(桑原武夫、前川貞次郎訳)岩波書店、1954年(2006年).

※Rousseau, Le Contrat Social, 1762.

●第1編(pp.14-41.)
●第2編(pp.42-82.)

引用:
・ルソーの用語の使い分け(p.31)
人々の結合によって形成される公的な人格
 =都市国家(Cite)、共和国(Republique)、政治体(Corps politique)
その他の呼び名
 =国家(Etat)、主権者(Souverain)、国(Puissance)
構成員
 =人民(Peuple)…集合的に、市民(Citoyens)…主権への参加、臣民(Sujets)…国家の法律への服従
・共和国とは?
「法によって治められる国家を、その行政の形式がどんなものであろうとすべて、共和国とよぶ。なぜなら、その場合においてのみ、公けの利益が支配し、公への事がらが軽んぜられないから。すべての合法的な政府は、共和的である。」(pp.59-60.)

コメント:
・一般意思の規定のしかた、一般意思と主権の関係をおさえる。
・「国民」という訳が出てくるが、どのような意味合いで使われているのだろう?国家の構成員であること?

2010年10月11日月曜日

ナンシー・フレイザー「再配分から承認まで?」

ナンシー・フレイザー「再配分から承認まで?―ポスト社会主義時代における公正のジレンマ」(原田真美訳)『アソシエ』第5号(2001年1月)、pp.103-135.

※この論文は、1995年3月に開かれたミシガン大学心理学部のシンポジウム"Political Liberalism"における講義を若干修正したものである(p.125)。

構成:
1 再配分と承認のジレンマ/2 搾取される階級、嫌悪されるセクシュアリティ、二価共同体/3 肯定か変容か? 救済問題の再考/4 ジレンマの回避―ジェンダーと「人種」の再考/5 結論

問い:
経済的不公平を解消しようとする「再配分」と文化的不公平を解消しようとする「承認」のジレンマをどのように解消するか?(前者は集団の脱分化を促し、後者は集団の分化を促す点でジレンマの状況にある。)

著者は「肯定」と「変容」というアプローチを提起し、このジレンマ状況を解消するには「変容」アプローチが有効であるとする。
(肯定アプローチ:「再配分」=自由主義的福祉国家/「承認」=主流の多文化主義
 変容アプローチ:「再配分」=社会主義/「承認」=脱構築)

ただし、「このシナリオを心理的かつ政治的に実行可能とするには、自己の利害関係やアイデンティティの基礎となる現在の文化構造に対する執着から、全ての人々を引き離さなければならない」(p.123)という。

コメント:
・わたしは「肯定アプローチ」に基づいてものごとを考えていることが判明。
・確かに「変容アプローチ」は「肯定アプローチ」がもたらす悪循環を回避できる可能性が高いのかもしれない。
・しかし、それに素直に与することができないのは「現在の文化構造に対する執着から、全ての人々を引き離さなければならない」という条件が実行不可能に思えるからだろう。
・ただし、著者の福祉国家と多文化主義政策の限界の指摘はその通りだと思った。
・さらに考えを進める必要あり。

未熟さを思い知る

文章をまとめるとはなんと大変なことなのか、と思う。言いたいことや書きたいことと、それを裏付けるために必要な資料。これらをどうやって組み合わせるのか。

今回の文章も書いているうちに当初構想していた筋書きとは少しずつ違う方向になっていった。見通しが甘いのだ、きっと。あとはもっともっと「書く」トレーニングを積む必要があるのだろう。

未熟さを知って、がんばろう。

2010年10月8日金曜日

鈴木寛さん

文部科学副大臣に再任された鈴木寛さん。今更ですが、経歴をみてみた…んー多彩。

すずきかん公式ホームページ
http://www.suzukan.net/

「すずかん.TV」という面白い試みも。文部科学副大臣の就任後は休止しているよう。
http://suzukan.net/suzukan.tv.html

そして、10月5日の「文部科学省新着情報」をみたところ下記の内容が。

【報道発表】
・コミュニティ・スクールの在り方を考える「熟議」の開催について
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/22/10/1298147.htm

「熟議」を通した政策形成プロセスに興味あり!一体、どのように話し合いがなされるのか…。この情報をコミュニティ・スクールに関心を持っている院生仲間に伝えたら、参加するとのこと。あとでどのような展開になったか教えてもらおう~!

さらに、著書を調べていたら、鈴木寛さんは金子郁容さんの『コミュニティ・スクール構想』の共著者だったことが判明!昔読んだときは気に留めていなかったけれど、そうか、両者の繋がりは昔からあったのかと妙に納得する。

2010年10月1日金曜日

論文検索

★Archives Européennes de Sociologie; European Journal of Sociology

関連論文をPDFファイルで保存する(3編)。

未入手:
Joppke, Christian (2010) 'The Inevitable Lightening of Citizenship'
Archives Européennes de Sociologie, Cambridge: Apr 2010. Vol. 51, Iss. 1; p. 9 (24 pages)

論文をかく

思考が混乱状態に陥ったため、頭の中を整理する。

「問い」を設定する。
「答え」を提示する。
「論証」する。

シンプリファイ。