2010年9月28日火曜日

ジョイント・セミナー

昨日、一昨日と4つの大学の院生が集まって一緒にセミナーを行いました。先生方も含め、だいたい20人くらい集まりました。4つの大学の院生幹事が中心となって準備をしたのですが、メールでのやりとりが中心となったため大変でした…(^^;

今回は参加者をいくつかのグループに分けてディスカッションを行いました。他大の院生や先生方と意見交換する貴重な機会となり、なかなか楽しいものでした。懇親会も盛り上がりました。

今後に残された課題はディスカッションの時間が短かったことと、テーマ設定のしかたです。後者についてはもっと論点をしぼれたらよかったと思う反面、その論点を設定する意義を短い時間の中でどの程度共有できるのかが疑問…と、なかなか難しいところです。

今回が初の試みでしたが、ぜひ来年も継続したいものです。サステイナビリティ。

読書会のテーマ

本日の参加者の共通テーマを探り合う。

キーワード(思いつくまま):
社会科教育(歴史、公民)、言語、多文化共生、シティズンシップ、オーラル・ヒストリー、政策分析、エスノグラフィー、アメリカ、キルギス、南アフリカ、イングランド、など。

そして漠然としたテーマを設定。

テーマ:
『多』と『他』

今後どういうふうに展開するか…。

2010年9月27日月曜日

金泰明『共生社会のための二つの人権論』②

金泰明『共生社会のための二つの人権論』トランスビュー、2006年.

構成:
第5章 価値的人権原理とは何か/第6章 ルール的人権原理とは何か/第7章 現代日本の神話と課題/第8章 開かれた共生社会をもとめて

コメント:
・人権と市民権の違いについてはこの本の中心的なテーマではなかった。
・人間として享受できる権利をどのように根拠づけるか、という点が論点。そのための〈価値的人権原理〉と〈ルール的人権原理〉という枠組み。
・社会契約説の立場からみた国家。「社会契約説によれば、国家や政府は、国民の生命や財産さらには人権を守るために国民の同意によって設立されるので、国家権力は好きかってに個人の権利を制限したり禁止したりすることはできません。」(p.80)
・社会契約説に基づけば、人権は国家と契約した人々が享受できる権利ということになる?とすれば、人権は市民権(政治共同体の成員であることによる権利保障)というかたちでしか現れ得ないということ?
・著者の構想。「開かれた共生社会へ向かう基本的な道筋として、現存するマイノリティへの差別や不平等に対しては〈価値的人権原理〉で対処しながら、長期的な展望としては〈ルール的人権原理〉に基づく開かれた共生社会を構想するというものです。」(p.202)
・コメントまとまりきらず。人権原理についての基本的な点についても再度整理する必要あり。
・金泰明『マイノリティの権利と普遍的人権概念の研究―多文化的市民権と在日コリアン』(トランスビュー、2004年.)も読もう。

2010年9月23日木曜日

金泰明『共生社会のための二つの人権論』

金泰明『共生社会のための二つの人権論』トランスビュー、2006年.

※明治学院大学大学院で竹田青嗣氏のもとで学ぶ(p.26)。
※金泰明『マイノリティの権利と普遍的人権概念の研究―多文化的市民権と在日コリアン』(トランスビュー、2004年.)をもとにして、一般の読者に広くわかりやすく、普遍的人権論を説明しようとするもの(pp.53-54.)。

構成:
序章 人権論の視座/第1章 わたしはなぜ人権を論じるか/第2章 二十一世紀の新たな問題/第3章 会議は踊る/第4章 人権の二つの原理

コメント:
・〈価値的人権原理〉と〈ルール的人権原理〉という枠組みをもとに人権思想について考察した本。わかりやすく書いてあり、基本的に読みやすい(そしてなんだか勇気づけられる)。
・人権と市民権の違いをどのように捉えているかに着目して後半部を読み進めたい。

2010年9月21日火曜日

クリスティーヌ・ロラン-レヴィ『欧州統合とシティズンシップ教育』

クリスティーヌ・ロラン-レヴィ、アリステア・ロス(編著)『欧州統合とシティズンシップ教育―新しい政治学習の試み』(中里亜夫、竹島博之(監訳))明石書店、2006年.

●アリステア・ロス、クリスティーヌ・ロラン-レヴィ「第1章 イントロダクション―今日のヨーロッパにおける政治的成長」(pp.11-35.)
・重層的なアイデンティティに対応する政治制度
「政治制度に対する忠誠のあり方も多様な形をとることになるであろう。そうなれば政治制度それ自体も、個人のアイデンティティのこうした複雑さに対応する中で、より一時的なもの、多次元的なもの、潜在的に断片的なものへとなっていくであろう。」(p.16)

●アリステア・ロス「第2章 子どもたちの政治学習―『概念に基礎をおくアプローチ』対『論点に基礎をおくアプローチ』」(pp.36-61.)
・ヨーロピアン・シティズンシップ
「新たなヨーロッパに依拠した新しいシティズンシップないしアイデンティティの観念は、国民国家における従来型のシティズンシップと明らかに異なるものでなければならない。すなわちそれは、これまでのように自民族中心主義的ではなく、より多様で包括的なものであり、ナショナリスティックな考え方とは結びつかない観念である。」(p.43)
「排外主義、人種主義、そして彼ら〔―ヨーロッパ・シティズンシップの促進に関心をもつ人〕が将来問題になると見ている『ローカルな』ナショナリズムを過剰に強調する主張、こうしたものに対抗するものとして『ヨーロッパ・シティズンシップ』に期待しているのである」(p.45、〔〕内引用者)

●イアン・デイヴィス、トニー・ソープ「第3章 市民としての思考と行動」(pp.62-89.)

コメント:
ロスの主張は、ヨーロッパレベルのシティズンシップを促進することによってナショナルレベルのシティズンシップを相対化することにある。その際に問題視されているのは、過剰なナショナリズム(自民族中心主義)である。気になるのは、ネイションに対してヨーロッパという存在が善なるものとして、またある種の統一体として対置されているように思える点である。さまざまなレベルにおける多元性をどのように捉えるのか?

論文検索

★Educational Review
★Comparative Education

関連論文をPDFファイルで保存する。
そのうち3編をプリントアウトする。

2010年9月19日日曜日

全国民主主義教育研究会編『政権交代とシティズンシップ』

全国民主主義教育研究会編『政権交代とシティズンシップ』(民主主義教育21・別冊)同時代社、2010年.

※全国民主主義教育研究会の研究集会での講演集。

●二宮厚美「民主党政権下の日本と新自由主義」(pp.7-39.)
・人間関係の貧困(ネットカフェ難民について)
「肉親を含めて人と人とのつながり、誰かが援助するとか誰かが支えるというつながりがないから連帯保証人がいない。…/人間関係、人が人を支えるサービスが同時に不足すると、お金がないということと合わせて、人々は従来とは違う貧困に陥れられる。」(p.25)
・所得の再分配
筆者が主張するのは「垂直的所得再配分」。すなわち、「まず上層あるいは大企業から所得を吸い上げて垂直的、つまり縦型で、上の資金を下に回す」こと(p.29)。言い換えれば、「応益負担ではなくて応能負担原則を貫いて能力のあるものから賃金を吸い上げる」こと(p.30)。これは所得税や法人税を累進的に課す(累進課税)に近い?

●小玉重夫「いま求められる政治教育と学校のあり方―シティズンシップ教育の観点から」(pp.41-60.)
・批判的にみること
「価値対立がある論点について議論をし、自分が何らかの判断をして意思決定をしていく」(p.45)
・社会構造の変化と学校教育の課題
「司法制度改革にしても国民投票法にしても、世の中の動きは、市民が法の制定や運用の意思決定に直接参加するようなルートを拡大していく方向」(p.54)にある。このような状況の中で、「労働と政治とはこれまでの学校の中でタブー視されてきた」(p.56)が、「学校こそが労働や政治というものを正面から引き受けなければならない」(p.50)という。
・シティズンシップ教育の意義
「シティズンシップ教育というのは基本的にアマチュアリズムの教育なのです。無能な市民というと語弊がありますが、『有能な』無能者というか(笑い)、成熟した無能な市民、そういう人を育てるというところを重視したいと考えているのです。…競争ではなくて批評と論争に開かれた教育です。そこでは、知識の批評化とかカリキュラムの市民化ということが求められるのではないかと思っています。」(p.56)
 …知識の批評化=知識を論争(対立や葛藤)の文脈に位置づける(p.57)
 …カリキュラムの市民化=新しい教師の役割?
 「専門家集団と市民が同等な関係になる。そして学校の先生がそれを橋渡しするような存在になる」(p.57)
・公共性とそのジレンマ
「公共性とは、異質なものを排除しない多様性、複数性がその条件をなしております。その際に、異質性を排除しないということ、排除しないことを通じて様々な社会的な問題を開かれた形で批評空間に載せていくということ、これらが追求される必要があると思います」(p.58)
「寛容や共感によっていろいろな人が共存し合うということと、ラディカルデモクラシーがいっている論争し批判し合うということの二つをどう両立させるか」(p.59)

●石田英敬「『言論による政治』は復権するか―ネットの時代と民主主義」(pp.61-87)
・消費社会がもたらした変容
「消費者をある意味で非常に子どもに近い状態に置いておくことが社会的に非常に活性化する。…あらゆる視聴者を子ども扱いしていく。受動的なメッセージの受け手に変えていく。」(p.66)

コメント:
・二宮氏の講演記録を読んでトリクルダウン説を思い出した。トリクルダウン説とは、「『富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が浸透(トリクルダウン)する』とする経済理論あるいは経済思想である」。しかし実際には、「国民全体の利益としては実現されない」と批判されている(Wikipedia「トリクルダウン理論」)。ここで、例えば税制改革を行えばトリクルダウンは実行可能なものとなるのだろうか?もしくは別の点が問題となるのか?
・小玉氏の講演記録は、氏が主張するシティズンシップ教育の意義について読みやすくまとめられており、理解しやすかった。シティズンシップ教育推進の背景要因としては、福祉国家体制から市民社会主導型の国家体制への組み換えが行われていることを一番重視しているようである。その他の論文で要確認。
・石田氏は今後のメディアのあり方を考える上で興味深い論点を提示していると思った。とりわけ関心をもったのは、後半の公共性や社会性を担保するような情報基盤を作らないといけないという主張である(pp.77-86.)。それが共有される範囲というのはどのように想定されているのだろう?ここでは「日本」という社会が暗黙に前提とされている気がするが、インターネットというメディアの特性を考えると、その共通枠組みはいろいろな範囲で考えることが可能となるのではないだろうか。加えて、対面での直接のコミュニケーションについても考慮に入れる必要があるのではないか。ネットだけを使っているとしても、「みんながオタクになる(p.78)わけではないだろう。関連する点として、メディアと無関係な人間というのは想定されているのだろうか?

2010年9月17日金曜日

菅首相・内閣改造

「菅首相:内閣改造 新閣僚決まる」
『毎日新聞』2010年9月17日 13時52分(最終更新 9月17日 15時37分)
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100917k0000e010056000c.html

▽文部科学=高木義明(敬称略)


川端達夫文部科学大臣が交代になりました。
中川正春文部科学副大臣、鈴木寛文部科学副大臣も交代となるのでしょうか…?

2010年9月16日木曜日

ヤング「政治体と集団の差異」

アイリス・M・ヤング「政治体と集団の差異―普遍的シティズンシップの理念に対する批判―」(施光恒訳)『思想』No.867(1996年9月)、pp.97-128.

※初出:Iris Marion Young, "polity and Group Difference: A Critique of the Ideal of Universal Citizenship", Ethics, Vol. 99, No.2(January 1989), pp.250-274.
※訳稿は次の編著に収録された論文に基づく:Ronald Beiner, ed., Theorising Citizenship, Albarny: State University of New York Press, 1995, pp.175-207.

構成:
1 一般性としてのシティズンシップ(排除を生み出す普遍的シティズンシップの理念/「普遍性」、「一般性」という神話/)
2 集団代表権としての差異化されたシティズンシップ(民主主義のパラドックス/集団、集合体、結社/抑圧の概念/集団代表制の機構/異質性を帯びた公衆/集団代表制の実践)
3 普遍的権利と特別な権利(法規や政策の普遍的定式化に対する批判/特別な処遇を要求する事例/差異に配慮する具体的政策/特別な権利の意義)

感想:
ようやく読むことができた…といっても時間がなかったから読めなかったというわけではなく、わたしの読解力の問題。5年前に読もうとしたときには、ちんぷんかんぷんだった…途中で挫折。1年前には一通り読むことはできたが、十分に著者の主張を理解することができなかったように思う(文献にメモがなかったため)。恥ずかしながら、ようやくおおまかな論理展開を把握できるようになった。今後も繰り返し読み込む必要がある文献。

2010年9月13日月曜日

大澤真幸『ナショナリズムの由来』②

大澤真幸「第一部 原型:ナショナリズムの由来/Ⅰ 普遍主義の倒錯」『ナショナリズムの由来』講談社、2007年、pp.49-111.

構成:
1 普遍主義の倒錯/2 ネーションの空虚な規定/3 ナショナリズムの三つのパラドクス/4 ネーションの三つの条件/5 ネーションの誕生日

コメント:
・基本的にアンダーソンを踏襲して論を展開している。
・ネーションは「生活様式の同一性」によって区別されるということの意味(p.74,102)は?実態としてなのか、それとも理念(規範)としてなのか。意識的には書き分けられていないようである。一見するとネーションを文化的同一性によって特徴づけているようにも受け取れる。
・一番すとんと理解できたのは、「ネーションの一つの特徴は、ときに熱狂にまでいたる、平等についての大衆的な幻想である」という箇所(p.105)。わたしがこの点からナショナリズムを理解したいということでもあるだろう。
・ナショナリズムを現実の不平等に対する異議申し立てとして考えるということ。すなわち、「民衆」が結託するための理念としてのナショナリズムという側面。(これは運動論的解釈になるだろうか。いわゆる、「下からの」ナショナリズム?民衆の思想であるからそこ、平等を志向するからこそ、偉大な思想家を生みだしはしなかった?)

2010年9月10日金曜日

【審議会情報】定住外国人の子どもの教育等に関する政策懇談会

【審議会情報】
・「定住外国人の子どもの教育等に関する政策懇談会」の意見を踏まえた文部科学省の政策のポイント 現在の進捗状況について(平成22年8月31日)
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/kokusai/008/toushin/1297513.htm

2010年9月8日水曜日

電子ファイルの管理

これまで「日付+タイトル」で保存してきた論文などの電子ファイル、非常に使いにくい(探しにくい)ことを再認識する。せっかく論文を入手しても活かせずじまいになっていました…。

そこで、参考文献と同じように「著者(出版年)タイトル」で再度整理し直すことに。見栄えもいいし、使いやすくなりそう。

ぼちぼち整理しよう~。

2010年9月7日火曜日

花崎皋平『〈共生〉への触発』

花崎皋平『〈共生〉への触発―脱植民地・多文化・倫理をめぐって』みすず書房、2002年.

「Ⅵ章 マイノリティの思想としてのフェミニズム―上野千鶴子との対話」(pp.209-280.)
※初出―『情況』1992年10、11月合併号所収。

共生について:
花崎 理解というのは自分の持っている解釈体系にいれることなんです。…自分の解釈体系はあてはまらないんだ、適用したらまずいんだっていうことを知るところで、いったん自己を相対化する。それが『共生的な了解』の出発点だと思います。」
上野 理解にはカタルシスがあるでしょう。共存にはカタルシスがないんです。」
花崎 ああそうですね。」
上野 つねにフラストレーションがある。」(pp.270-271.)

その他:
・地球を閉鎖系と考える思考
 「上野 あなたの繁栄は誰かの犠牲のもとで成り立っているという、その発想が出てこないんです。」(p.227)
・制度を閉鎖系と考える思考(p.258)
 「上野 制度論的な議論は、あるシステムを閉鎖系としてとらえたときにだけなりたつような議論ですね。私は近代主義批判というものはどれもすべて―とくに近代経済学批判がそうですけれども―システムを閉鎖系としてとらえたとたんにおきた間違いを衝いているのだと思っています。」(p.258)  
・関係的カテゴリーとしての男性/女性(p.228)
 「花崎 女性の反差別の運動は、性差なき平等をめざすものではなく、性差を差別にしない関係の表現ということになりますね。」(p.230)
 「上野 私たちは弱者である、社会的少数者であるということを認めて、弱者のままで、社会的少数者が誰からも抑圧されずに生存できる、ということが実はゴールだったんじゃないか。」(p.232)
・概念の権力性
 「上野 言説というものは、あるいは概念というものは、つくったとたんにもうすでに権力的なものですよ。フェミニズムだってそういう言説の権力―対抗権力と呼びたいですが―は行使していますから。」(p.237)
・思想は思想の問題
 「上野 思想は思想の問題として解けるんだから、ここにこういう欠点があるとか、こういう間違いがあるということはその限りできっちり言い合うことができると思うんですが。」(p.237)
・普遍主義への問い
 「上野 私はやっぱり基本的に関係的な場にとどまって考えたい。…私は前に『複合差別』という言葉をつくったりしたんですけれど、どうもうまくいかない。」(p.234)
 「上野 『人権』という概念、そういう普遍的な概念のもとに、多様な差別の問題を包括できると考えていらっしゃいますか。」(p.240)
 「花崎 女性差別と、障害者差別とか、そういうそれぞれのコンテクストがあって、それぞれのコンテクストがそれぞれのコンテクストで、対話的な関係を成立させるところでとどまるべきだということですか。」
 「上野 それ以上は私にはわかりません。」(p.259)
・「他者」の思想としてのフェミニズム
 「上野 フェミニズムは徹底的に『他者』の思想ですから、あんたにわかるわけない、わかってたまるか、ということろがあります。わかってもらえなくてもいい、ただしわからないままに私をあるがままに認めてほしい、そういう思想です。」(p.257)
 「上野 自己決定の要求には、私に必要があるときに、その必要を満たす能力のあるあなたには、私にそれを提供する義務がある、ということまで含むはずなんです。」(p.275)

コメント:
長い引用になってしまいましたが、興味深い論点がいくつも出されていたので。備忘。上野さんからの引用が多いですね…。

2010年9月1日水曜日

国籍法の改正(平成20年12月12日)

法務省HP:国籍法が改正されました
http://www.moj.go.jp/MINJI/minji163.html

「平成20年12月12日,国籍法が改正(平成21年1月1日施行)され,出生後に日本人に認知されていれば,父母が結婚していない場合にも届出によって日本の国籍を取得することができるようになりました。
 また,虚偽の届出をした者に対する罰則が設けられました。」

コメント:
2009年から施行された国籍法の改正内容のメモ。

【報道発表】高等学校の課程に類する課程を置く外国人学校の指定に関する基準等について(報告)

【報道発表】
・高等学校の課程に類する課程を置く外国人学校の指定に関する基準等について(報告)(平成22年8月31日)
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/22/08/1297232.htm

高等学校等就学支援金の支給に関する検討会議(報告)〔概要〕
高等学校の課程に類する課程を置く外国人学校の指定に関する基準等について(報告)
関連資料

基準(概要より):
1.教育課程等
○高等専修学校に求められているレベルに加えて、3年間の修業年限と、体育・芸術等の科目を含む高度な普通教育に類する教育を施すにふさわしい授業科目の開設が必要。
○個々の具体的な教育内容については基準としない。
・既に指定されている他の外国人学校ついて、教育内容を基準としていないこと
・既に指定されている専修学校高等課程について、具体的な教育活動の内容に関する基準が定められていないこと

2.教員の資格
○高度な普通教育に類する教育を実施する資質として、教員としての職務を実施するに必要な専門的教育を受けていることが必要。

3.施設・設備
○専修学校高等課程と同様に必要な校地、校舎、設備を備えていることが必要。

4.運営及び情報提供
○法令に基づく学校の自己評価、情報提供及び公表が適正に行われていることが必要。
○就学支援金の管理その他の法令に基づく学校の運営が適正に行われていることが必要。

佐々木てる『日本の国籍制度とコリア系日本人』

佐々木てる『日本の国籍制度とコリア系日本人』明石書店、2006年.

構成:
序論 在日コリアンの国籍取得とコリア系日本人/第1章 戦後日本政府にとっての国籍制度とネーションの設定/第2章 戦後日本国籍取得者の概況/第3章 コリア系日本人への意識調査/第4章 コリア系日本人のアイデンティティに関する理念的把握/第5章 日本国籍取得者のライフストーリー/補論 近代日本における国籍制度の誕生

要旨:
著者は「民族的なルーツを大切にすることと、日本国籍を取得することを共存させていく戦略」(p.20)を念頭に、「コリア系日本人」という枠組み(用語)を提起する。それは、日本国籍を取得した在日コリアンを指す。このような枠組みが必要となるのは、「『日本人』対『在日コリアン』といった二項対立は、日本社会と在日コリアン社会の双方から排除される人を生み出すことになる」(p.22)からである。この「コリア系日本人」という用語をひとつの記号(=使用される文脈において意味づけが変わるもの)としてとらえ、それが持つ意味として以下の3点を挙げている。①「コリア系日本人」の不可視の状態、アイデンティティを回復する、②記号的なイメージから引き起こされる「コリアン」対「日本人」という二分法をさけ、双方の共生、調和を存在としてイメージさせる、③「日本人が単一民族である」というイメージを内部から変容させる(pp.23-25.)。