2015年8月29日土曜日

一万時間

続けて投稿。

大学院でのトレーニングについて
〈人文社会系/アウトプット編〉

その①:授業の講読文献の発表レジュメの作成
下ごしらえ
・趣旨がわからないとまとめられない。
 →一度読んでもわからない場合、二度、三度読むことも。書き方が悪い、というオチもある。
・基本的知識がないと理解できない。
 →用語辞典や概説している文献で基本的な用法を確認。
・その文献が参照している文献をたどり、論述の根拠を確認しないといけない。
 →どこまでできるかは、時間との闘い。

本番
・相手(文献)の言っていることを押さえた上で、議論が不十分な点を指摘したり、
 この文献から学べることや現代的意義について考察する。

このトレーニングは、基本的には最初の2年間みっちり。

その②:研究会での発表レジュメの作成
・問題設定をするために、関連すると思われる先行研究を検討する。
 →購読文献の下ごしらえの作業と同じ。ただ、関連する文献は網羅的に収集する。
・資料を収集する。
 →先行研究において根拠となっている一次資料を収集し、自分なりに整理していく。
  と同時に、新たな資料を掘り起こす。

本番
・論文の問題設定の妥当性を論証しつつ、資料の意義や位置づけについて説明する。
 →どのような研究方法を用いるかによって異なる。

このトレーニングは、大学院に入ってから出るまで続く。
博士課程はあまり授業がないので、ほぼこの作業に時間が費やされる。

その③:投稿論文の執筆
・研究成果を公表するため、学会誌に投稿する。

このトレーニングは、博士課程に入ってから行うことが多い。
研究をやめることになるまでずっと続く。


自分の10年余りの研究者(たまご)生活を思い出してみると、こんな感じ。

授業のレジュメの作成は最近していない。
研究会での発表も今はしていない。もう書くしかない状態。
今は、博論の仕上げと共同研究の原稿、依頼いただいている原稿に取り組み中。

これまでは「読む」中心だったけど、これからは「書く」中心。
何事かを成し遂げるには、一万時間必要(らしい)。

ということで、まだまだトレーニングは続くのです。

encourage me

基本がネガティブ。
そんな自分に向けたいくつかの言葉。

・Enjoy! (楽しむ!)
 →これ大事ですね。

・Anyone who has never made a mistake has never tried anything new.
 (一度も失敗をしたことがない人は、何も新しいことに挑戦したことがない人である。)
 →J-waveで聞いた名言。アインシュタインの言葉。

・機会が与えられていることに感謝すること。

挑戦する機会は誰もが得ているわけではない。楽しみながら、今の自分を試そう。
失敗はつきもの。恐れずに挑戦しよう。そして、経験を積もう。


おまけ

・「どうしたらなれるか?」と考えるヒマがある、という時点で(きつい言い方をすれば)
 演奏家への道はないと考えていい。
・毎日食べたり飲んだり空気を吸ったりするのを「一所懸命」やるわけではない。
 同じように、毎日休まず音楽をやるのは「生きるのと同じ」であって、それが「自然」だからだ。

2015年8月27日木曜日

読む、考える、書く

この繰り返し。

前は、読む→考える→書くの循環が中心だったけれど、
今は、書く→考える→読むの循環になっていると思う。

前は、「散読」という感じで、手当たり次第、気になったタイトルのものを読み漁る、
必要そうなものは手元に置くようにする、というような感じでした。

今は、「探読」という感じで、必要な情報、どこにあったっけ?と記憶を掘り起し、
必死に手元の資料を整理するという感じです。

頭の中のマッピングは、一筋縄ではいかないもの。
行きつ戻りつ、ぐるぐるしつつ、深まっているのか、
はたまた同じ場所に戻ってきているのか…。

後になってようやくわかる。
そこからまた、問いが問いを生む。

ひとつ研究のキーワードが増えるだけで、
膨大な過去の議論の蓄積に向き合うことになるのです。

最初は溺れましょう。そのうちどうにか泳げるようになるでしょう。

2015年8月15日土曜日

8月15日に寄せて

「どうしたらいいの?」という問いかけがあったら、
「どうしたらいいと思う?」と答えようと思う。

考えること、そのプロセスを促したい。
問いを投げかけたことを大切にして、共に考えたい。

もっともらしい答えを与えるのは簡単かもしれないが、
実際、考え続けることは難しい。

民主主義とは何だろうか?

それはひとりひとりに考えることを促すことではないか。
あなたの考えは貴重な一つの意見だ、として受け止めることではないか。

それは何よりも、相手を信頼しているということだ。
対等に話し合う相手として、尊重しているのだ。

平和とは何だろうか?

みんなが、自分のやりたいことを自由に追求できる条件ではないか。
絵をかく、歌を歌う、野球に打ち込む、子育てをする、何でもいい。
考える自由も、もちろんそのうちのひとつだ。

それができる環境があるということだ。
空気みたいになっている、きっとそういうものだ。

平和を維持するのは、とても難しいことだと思う。
でも、平和を叫びたい。

同時に、いま享受している平和が、時間的・空間的に他の人の
犠牲の上に成り立っている可能性について常に考える必要があるだろう。

平和だと思っていても、気づかないだけで、
平和ではない状況はそこらへんに転がっているだろう。

身の回りの平和だけではなく、すべての人に平和が訪れるように。
人が尊厳なく扱われることがなくなるように。


※最近読んだものの影響を受けつつ、書く。
 ・ポリタスの記事「戦後70年」
 ・『1984年』[新訳版]


2015年8月7日金曜日

10年後も、同じことを言えるか

10年後も、わたしは今と同じことを言えるだろうか。

状況が変わり、立場が変わり、さらにいろいろな変化がある中で、
それでもわたしの中で変えたくないと思っていること。
それを貫き通すことができるか。

とりあえず、忘れないように書いておこう。
研究を何のためにやるのか。なぜ研究者なのか。

世界の平和を目指すため。
(おっきく出た!これは高校卒業時に担任の先生からもらった言葉。)

自分を含め、身近なところからの意識の変容しかり、国家にとらわれない発想しかり。
人びとが共に生きるために、わたしの視点から提起できることを追求する。

あと、研究は競争ではないこと。

みんなで、事実や解釈の積み重ねをしているということ。
ただ順応するのではなく、批判的にみていくこと。
(批判は否定ではありません。)

お酒を飲みながら、でもすっと出てきた言葉たち。
そして、それを聞いてくれる人たち。

わたしが自分の方向を見失ったら、きっと叱ってくれるでしょう。