2010年7月29日木曜日

岩渕功一「多文化共生における〈文化〉の問い」

岩渕功一「多文化社会・日本における〈文化〉の問い」(pp.9-34.)
岩渕功一編著『多文化社会の<文化>を問う―共生/コミュニティ/メディア』青弓社、2010年.

※読書会での発表に向けて。

構成:
はじめに/1 多文化主義の退場と多文化共生の台頭/2 多文化共生のうさんくささ/3 多文化主義なき多文化共生/4 本書の構成―多文化な問いをめぐって

要旨:
多文化主義を掲げてきた国においてその終焉が語られるようになる一方で、日本においては「多文化共生」が政策論において使用されるようになった。このような状況の中で〈文化〉はどのように語られているのか、またどのように語られるべきなのか。

コメント:
・著者は「多文化・市民アプローチ」のようなものを提唱しているように思われる。それは、現在の政策の前提となっている「地域・住民アプローチ」の限界を見据えているからであろう。
・ただし「市民としての平等に扱う」ということの内実が見えにくかった。それは「日本を多文化社会として公式に認める」という記述においても同様である。
・イエン・アンの「表象の政治」と「存在の政治」という区別は興味深い。問題をどのレベルで論じるかに関わってくる。ミクロ―マクロと置き換えることができるかもしれない。また、松宮・山本の「対面的相互作用」「意識」「構造的平等」という区別を参照すれば、アンの区別に加えて「権利をめぐる政治」を加えることができるかもしれない。
・テッサ・モーリス=スズキを引きながら述べていた「1899年体制」に注目する必要があるだろう。シティズンシップ論の文脈で論じることは可能。

[8/11―コメント追加]

2010年7月28日水曜日

塩原良和「『連帯としての多文化共生』は可能か?」

塩原良和「『連帯としての多文化共生』は可能か?」(pp.63-85.)
岩渕功一編著『多文化社会の<文化>を問う―共生/コミュニティ/メディア』青弓社、2010年.

※前回の読書会での課題文献の再読。

構成:
はじめに/1 福祉多文化主義と新自由主義的「改革」/2 「多文化共生」の制度化への批判の意図せざる帰結/3 本質主義批判の意図せざる帰結/4 対等な関係性づくりのプロセスとしての「多文化共生」/5 多文化共生に向けた「協働」/6 「協働」から「連帯」へ?/おわりに

要約:
日本における「多文化共生」政策・言説批判(すなわち、エスニック・コミュニティの制度化と本質主義化への批判)は、新自由主義的な改革と親和的である。そのため、制度化や本質主義化への批判的思考を前提としながらも、エスニック・マイノリティのエンパワーメントを可能にする施策のあり方を模索すべきである。

コメント:
・制度化と本質主義化がどのような相互作用にあるのかが論じられていなかった。この部分は行政(政策)対応の避けがたい課題だと思われる。この点をどのように克服していくのか。行政との距離の取り方の問題?
・H氏によればこの著者は「多文化主義者」に分類される。論者によるアプローチの違いを図式化しておく必要があるかも。
・「(多)文化的市民権」に関する論理展開に注目。「文化は経済・社会構造と切り離して考えることはできない。なぜなら、文化には個人がそれを活用することで経済・社会的上昇を達成するための資源という側面があるからである。そのため、ある社会での言語・習慣・価値規範・信仰などの文化的価値が平等に承認されていなければ、それを経済・社会的な資源として活用する可能性も不平等になる。したがってエスニック・マイノリティ集団に対する社会経済的不平等の是正は、そうしたマイノリティ集団の文化の平等な承認、すなわち(多)文化的市民権の保障と密接不可分である。」(p.65)ここでは、「エスニック・マイノリティ集団」が成立する時点で、ある社会(=国家)は文化に対して中立ではないという前提がある。

[7/28―構成追加、要約修正]
[8/11―コメント追加]

2010年7月26日月曜日

梅棹忠夫『知的生産の技術』

梅棹忠夫『知的生産の技術』(岩波新書F93)、岩波書店、1969年。

構成:
はじめに/1 発見の手帳/2 ノートからカードへ/3 カードとそのつかいかた/4 きりぬきと規格化/5 整理と事務/6 読書/7 ペンからタイプライターへ/8 手紙/9 日記と記録/10 原稿/11 文章/おわりに

引用:
「研究生活における基礎的技術みたいなものは、研究者のあいだでも、意外に議論されることがないのである。」(p.6)
「この本は、はじめから個人を対象にしてかいている。…知的生産は、どこまでも個人においておこなわれるもである。」(p.19)
「整理は、機能の秩序の問題であり、整頓は、形式の秩序の問題である。やってみると、整頓よりも整理のほうが、だいぶんむつかしい。」(p.81)
「整理や事務のシステムをととのえるのは、『時間』がほしいからでなく、生活の『秩序としずけさ』がほしいからである。」(p.95)
「よみおわって、読書ノートとして何をかくのか。…わたしにとって『おもしろい』ことがらだけであって、著者にとって『だいじな』ところは、いっさいかかない。」(p.113)
「文章をかくためには、まず、かくべき内容をかためなければならないのだ。」(p.201)

コメント:
知的生産に関わる情報処理の問題は今も昔も変わらないのですね…。もちろん、その質は変わっているのでしょうが、一人の人ができる情報処理に限界があることは事実。それをどのように積み重ねていくのか。このような技術(スキル)についての情報共有ができていないのは確かにもったいない。経験の蓄積がない。一から学び直しになってしまう。もちろん、そのような技術を知っていることと、それを地道に実行できるのかは別の問題ですけれど。「研究生活における基礎的技術」のようなものの定式化を行っていく必要があるのでは?

[7/28―構成&引用追加、コメント修正]

2010年7月13日火曜日

無理やり名前をつけてみる

現在自分が取り組んでいる研究について、もっともらしい分類名(分野)を考えてみる。とりあえず今考えつくのは「教育政策の社会学」かなと。「教育政治学」というワードも思い浮かんだけれど、これはもっと政治学よりになるような気がしている。いつもの研究上のアイデンティティ・クライシス。

2010年7月12日月曜日

ものさし

大人になりたい。人にものを言う前に、自分がきちっとやる。一個の人間として向き合うようにする。わたしは未熟だ。自分のなかのポジティブ/ネガティブ感情をどうコントロールするのか。まだ直視できないでいる状況。自分の、ものさしがほしい。

研究室=「幻想の共同体」?

研究室という集団の特質は何なのだろう。理系みたいに共同研究するわけでもなし。まったく個別の作業が進んでいる、いわゆる文系の研究室。ただ、同じ部屋にいるだけ?同じ研究会に出席するだけ?事象としてはそれだけだが、それ以外に共有するものは存在するのか?(思想?歴史?)研究者としての「自立」について考える今日この頃。

参院選&滋賀知事選

昨日選挙でした。出口調査で大勢って判明するものなのですね。そういう意味では20時にすでにおおまかな結果は出ていたような。でも、テレビ各局ごとに把握の仕方は違っていて、それはおもしろかった。

政治家の議論の仕方にもルールがあるんだろうな。とある番組で共産党の人がやり込められていたけれど、聞く耳持たず、ではいけないと思う。現状認識がどのように違っているのか、未来への展望がどのように違っているのか、いちいち明らかにしてほしいとも思う。選挙時くらいしか、政治番組見ない人もいるだろうし。かくいう私も常にアンテナを張っているわけでもない。

そして、投票内容については親しい間柄においてもお互いにあまり話さない。何ででしょうね…。個人の主義主張は「内面」の自由として保護されるべしという考え方があるのかな?自分も出さないし、相手も出さない。直接ぶつけられることのない主義主張たち。「議論」に対する拒否感があるのでしょうか。日常の素朴な直感も重要だと思うのです。もちろん、大局的な見方も。

あとは、個人が政治に関わる限界も認識すべきなのかもしれない。国会の、政府のすべての動きについて情報提示されても、それをかみ砕ける人がどれほどいるのか。

あと、同日に滋賀知事選もありました。嘉田氏が再選。なんとなく応援したくなる、嘉田さん。琵琶湖に恋する人に悪い人はいない気がする(笑)。明らかな滋賀ひいき、琵琶湖ひいきです。でも住みよいところになってほしい。

2010年7月8日木曜日

組織は手段か、目的か

組織のあり方について。

目的があってこその、組織。何のために組織化するのか、つねに問い直す必要がある。組織の中をうまく回すために組織化するのではない。必要となる、理念。つねに立ち返るところ。

その一方で、いったん組織としての目標が決まった後の運営のしかたは別の問題では?どのようなやり方がありうるのか。理念には賛同するが、やり方は気に食わないという場合。それも含めて理念か、運営のしかたが悪いのか。

でも運営のしかたに気を取られると、組織が目的化してしまう可能性も。つねに気をつけなければいけない。

【備忘】研究者=知識人

院生という立場。
研究室という幻想。

研究者であること。

卓越性という協働性。
独立した思考と論理展開。
つねにアマチュアであること。
つねに手続きを問い直すこと。
誰に向かって、何を語るのか。
自分自身の立ち位置に自覚的であること。