2011年8月9日火曜日

駒崎弘樹『働き方革命』

駒崎弘樹『働き方革命――あなたが今日から日本を変える方法』筑摩書房(ちくま新書)、2009年.

つれづれなるコメント:
・大人は大人であることを楽しんでいるのだろうか。同じように、教師は教師であることを楽しんでいるのだろうか。今の社会を生きている人びとが充実した人生を送れなければ、その姿をみて育つ子どもがわくわくするような未来を想像できるとは思えない。
・多元的な参加ということについて漠然と考えているが、そのためには著者のいう「可処分時間」(p.154)がもっと増大することが必要だろう。仕事を通じての社会参加のみが重要なわけではない。地域社会、家族などそれぞれのコミュニティへの積極的な参加も同じくらい重要である。もちろん、そのためのシステムも必要だが、それを望ましいと思う意識が何よりも必要だろう。
・学校現場で働く人たちの可処分「時間」を増やしたい!教師は教師のみやっているわけではない。地域社会では一人の住民として、家庭内ではその一員としてさまざまな側面で社会と関わっている。
・家庭内はプライベートな閉じた空間ではない。その中に社会を取り込めるし、社会とかかわる空間にできる。家族を大事にすることが「私的な」ことなのではなく、そこから社会へとかかわっていくための重要な窓口になる。
・「自己イメージが、わたしたちの行動を規定する」(pp.52-53.)には納得。わたしも自分をネガティブ人間だと自己規定してきた節がある。失敗や最悪のケースを予期し、それが本当になっても傷つかないように自分自身をかくまってきた。
・どういう社会をつくるのか、という社会に対するイメージをもつことは自己イメージと同じくらい重要だと思う。その社会というのは「国・政治」に還元されるものではなく、「家族・友人・すぐそばの他者の連なり」(p.193)というところからイメージすることも重要。国はひとつの機構であって、それに関心をもって十分に動かせる人がいないとどうにもならない。
・わたしにとって仕事で自己実現するとはどういうことを意味するだろうか。それが「競争」や「効率」に飲み込まれてしまわないように、ビジョンをしっかりと持っておく必要があるだろう。そのひとつとして著者のいうように「働く」ことのイメージを変えることが重要。
・久しぶりに会う人にはついつい「忙しい?」と聞いてしまうし、自分も聞かれる。そうすると「忙しい方がいいのかもしれない」と思ってしまう。もちろん仕事はある。けれども、それを「忙しい」と形容することは避けよう。

メモ:
・今回の大震災で感じたのは「動けない」自分がいること。時間の問題、資源の問題、言い訳ならいくらでもつけられるだろう。募金はしたので、それでいいのかもしれない。でも、歯がゆさがある。もっと、何か、できるのではないか。身の回りにはいろいろな資源があるのに、それを使いこなせていないだけなのではないだろうか。反省。

2011年8月8日月曜日

デューイ『民主主義と教育』

デューイ「第26章 道徳の理論」『民主主義と教育(下)』(松野安男訳)岩波書店(岩波文庫)、1975年(原著:1916年).

・知識のとらえ方
「知識という語の正しい意味について議論することは必要ではないのである。教育のためには、ある一つの名称の下にあるいろいろな性質に着目すること、行為に重要な点で影響を与えるものは経験の急迫を通して直接に得られた知識であることを本当に理解すれば足りるのである。」(p.239)

・知識と道徳
「目標をもち、他の人々との協働を伴う作業において学習され使用されるものは、意識的に道徳的知識と見なされようと見なされまいと、道徳的知識なのである。というのは、それは、社会的関心を確立し、その関心を実効あるものとするのに必要な知性を授けるからである。」(p.240)

・方法が重要
「単なる学校の諸学科としては、それらの修得はただ専門的価値を有するにすぎない。それらの社会的意義が実感されるような情況の下で修得されるならば、それらは、道徳的関心を育て、道徳的見識を発達させる。」(p.240)

・知的態度の倫理的価値
「道徳的特徴を、権威ある掟に外面的に服従することと同一視する習慣は、われわれにこれらの知的態度の倫理的価値を無視させることになるであろう。」(p.241)

コメント:
論点をどこにもってくるのか。問いのずらし方を参照しつつ、引き続き検討。

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』②

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波書店(岩波文庫)、1982年(初版:新潮社、1937年).

・本当の発見について
「本当に人類の役に立ち、万人から尊敬されるだけの発見というものは、どんなものか、ということだ。それは、ただ君が初めて知ったというだけでなく、君がそれを知ったということが、同時に、人類が初めてそれを知ったという意味を持つものではなくてはならないんだ。」(p.94)

・学問について
「出来るだけ広い経験を、それぞれの方面から、矛盾のないようにまとめあげていったものが、学問というものなんだ。だから、いろいろな学問は、人類の今までの経験を一まとめにしたものといっていい。」(pp.94-95.)

・再び、発見について
「偉大な発見がしたかったら、いまの君は、何よりもまず、もりもり勉強して、今日の学問の頂上にのぼり切ってしまう必要がある。そして、その頂上で仕事をするんだ。」(p.95)

コメント:
自然科学と社会科学(人文科学も?)では「発見」についてのとらえ方が違うのではないかと思う。この見解は、自然科学にのみ当てはまる?どのような意味で「人類が初めてそれを知った」といえるのか。今までの先行研究を踏まえるのはもちろんだが、埋もれてしまった、といえる研究もあるのではないか。見極められるものならば、頂上で、仕事がしたいとも思う。そのためには「もりもり」研究しなければ。

丸山真男「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」

丸山真男「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想――吉野さんの霊にささげる――」(pp.307-338.)、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波書店(岩波文庫)、1982年(初出:新潮社、1937年).

・「客観的」認識について
「世界の『客観的』認識というのは、どこまで行っても私達の『主体』の側のあり方の問題であり、主体の利害、主体の責任とわかちがたく結びあわされている、ということ――その意味でまさしく私達が『どう生きるか』が問われているのだ、ということを、著者はコペルニクスの『学説』に託して説こうとしたわけです。認識の『客観性』の意味づけが、さらに文学や芸術と『科学的認識』とのちがいは自我がかかわっているか否かにあるのではなくて、自我のかかわり方のちがいなのだという、今日にあっても新鮮な指摘が、これほど平易に、これほど説得的に行われている例をわたしはほかに知りません。」(p.317、強調引用者)

・知識と道徳
「『知識』――実は個々の情報に過ぎないもの――のつめこみと氾濫への反省は、これまたきまって『知識偏重』というステロ化された叫びをよび起し、その是正が『道徳教育の振興』という名で求められるということも、明治以来、何度リフレインされた陳腐な合唱でしょうか。その際、いったい『偏重』されたのは、本当に知育なのか、あるいは『道徳教育』なるものは、――そのイデオロギー的内容をぬきにしても――あの、私達の年配の者が『修身』の授業で経験したように、それ自体が、個々の『徳目』のつめこみではなかったのか、という問題は一向に反省される気配はありません。」(p.325)

・修身と社会科
「戦後『修身』が『社会科』に統合されたことの、本当の意味が見事にこの『少国民文庫』の一冊のなかに先取りされている」(p.325)

メモ:
・知識観=(社会)構成主義
・学力観=多文化教育、異文化間教育
・「修身(道徳)」と「社会科」=シティズンシップ?

2011年8月5日金曜日

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波書店(岩波文庫)、1982年(初版:新潮社、1937年).

・関係性を問う学問
「君が大きくなると、一通りは必ず勉強しなければならない学問に、経済学と社会学がある。こういう学問は、人間がこんな関係〔=「生産関係」〕をつくって生きているということから出発して、いろいろ研究してゆく学問だ。」(p.93、〔〕内・強調引用者)

コメント:
人間が関係性の網目に組み込まれているということ。社会学や経済学はそれを前提として問いを提起する学問であるということ。人と人との関係がつながっているという思想から出発しているのだ。専門にしてきた人からすれば当たり前のことなのかもしれないが、わたしには新鮮だった。逆に言えば、「わたしには関係ない」という考えでは話が始まらないということ。(逆にそこから話を始めるということもあるのかもしれないが。)これは社会科学全体に当てはまることなのではないか。経済学では「生産」や「交換」という関係性が中心に分析されるだろう。社会学は?教育学や政治学に置き換えると、どうなるだろう。人は自分が行っていることを知っていても、その法則を知っているわけではない。

・社会認識と道徳
「この1930年代末の書物に展開されているのは、人生いかに生くべきか、という倫理だけでなくて、社会科学的認識とは何かという問題であり、むしろそうした社会認識の問題ときりはなせないかたちで、人間のモラルが問われている点に、そのユニークさがあるように思われます。」(丸山真男、pp.310-311.)
「戦後『修身』が『社会科』に統合されたことの、本当の意味が見事にこの『少国民文庫』の一冊のなかに先取りされているからです。」(同上、p.325)

コメント:
この点についてさらに考察する必要あり。

メモ:
初心にかえる本。高校生の時に読み、大学院に入って読み、そして就職して読み直した。今回は「関係性」のことが気になって「人間分子の関係、網目の法則」を目当てに読んだ。全体的な内容については忘れているところもあり、読むたびに新しい発見がある気になる。その時々で少しずつ成長するコペル君になる。

2011年8月4日木曜日

吉本隆明『真贋』

吉本隆明『真贋』講談社(講談社文庫)、2011年.

・人間として
「具体的に言えば、役目や役職では上下があるのは当然としても、その上下はあくまでも仕事上のものであって、人間としては対等であるという意識が身についていないのではないでしょうか。」(pp.129-30.)

・人を見る目
「人を見る上でもっと〔も〕大事なことを挙げるとすれば、それはその人が何を志しているか、何を目指しているかといった、その人の生きることのモチーフがどこにあるかということのほうだといえる気がします。」(p.135、〔〕内引用者)

・もう一歩が踏み出せない…
「自分にとって真に重要なことは何なんだと突きつけられたら、僕ならこう答えるでしょう。その時代時代で、みんなが重要だと思っていることを少し自分のほうに引き寄せてみたときに、自分に足りないものがあって行き得なかったり、行こうと思えば行けるのに気持ちがどうしても乗らなかったりする、その理由を考えることだ、と。」(p.201)

・いいことはみんな知っている
「いいことをいいといったところで無駄だということです。それは歴史が何回も証明してきました。いいか悪いかではなく、考え方の筋道を深く追わなければ、問題の本質が見えてきません。考え方の微細な筋道をたどっていかないと、解決の糸口を見失ってしまうでしょう。」(p.251.)

メモ:
よしもとばななさんって、吉本さんの娘だったのかー…知らなかった(>_<)
書籍部でみかけて衝動買い。久しぶりの一気読み。

[8/8―一部修正]