2011年2月26日土曜日

伊藤恭彦『貧困の放置は罪なのか』

伊藤恭彦『貧困の放置は罪なのか――グローバルな正義とコスモポリタニズム』人文書院、2010年.

構成(pp.9-96.):
序章 貧困に苦しむ人々と私たち/第1章 貧困の放置は罪なのか――貧困の撲滅をターゲットとするグローバルな正義(日常生活に潜む新マルサス主義、日常生活に潜むリバタリアニズム、日常生活に潜むナショナリズム)

引用:
・経済学者ジェフリー・サックス「貧困の罠」(poverty trap)
「サックスは『貧困の罠』から抜け出すための有効な対外援助は、資本の蓄積、経済成長、世帯の所得増という三プロセスの後押しだとしている。」(p.25)
・問題設定
「本書の課題は貧困を撲滅するため富裕国の責任を明らかにし、誰もが貧困から解放され、人間的な生活をおくれる地球を実現するようなグローバルな枠組みを構想する点にある。この構想は最終的には国際的な制度や国際的な公共政策によって可能となるだろう。本書で力点をおくのは、そうした制度や政策の前提となる倫理的な問題である。」(p.28、強調引用者)
・正義について
「『正義』は『各人にその人のものを与える』(suum cuique tribuere)という規範である。」(p.33)
「『等しきものは等しく扱え』というのが正義の規範的要求である。」(p.70)
・(日常生活に潜む)リバタリアニズムへの批判
「一人一人が自分の能力を行使して獲得した財と、自発的交換によって移転した財からなる財の分配結果は正しいという考え方は二つの点で誤っている。第一に自己労働に基づく自己所有という考えは、各人の労働がそもそも可能となるためには、それを支える社会制度が不可欠であるという決定的な問題を考慮しておらず、その意味で倫理的基準とはならない。第二にこの考え方は、労働と交換の背後にある個人間の差異を真剣に考えていない点でも倫理的基準とはならない。」(p.60、強調引用者)
・(リベラル・)ナショナリズムへの応答
「リベラル・ナショナリズムの議論は本章で検討の対象としている困窮者の状況改善を優先する見解に基づく、富裕国から貧困国への財の移転の責任と義務を覆しはしない。さらには財の移転のためのグローバルな制度形成に反対する根拠ともならない。」(p.86)
・問いへの回答
「『貧困の放置は罪なのか』と問われることがある。これに対する本書の答えは、罪を罪として判定する制度上の基準が不在であり、そのことを放置していることが罪なのだということになる。」(p.74)

コメント:
・研究室の読書会で読み始めた本。
・リバタリアニズムへの批判が興味深かったが、この批判の論理と有効性についてはまだ十分に理解できていない。引き続き検討する必要あり。
・著者の戦略は、検討課題を「最低限」のものに限定する(=貧困の撲滅)ことで、一定の倫理を成り立たせようとする点にある。ただし、そのような考え方(ミニマリズム?)自体成り立つのだろうか?(偶然、別の授業でミニマリズムが成り立たないという主張を目にしたところだった。)
・わたしが手にしている財(=所得)のどこまでが正当なものなのだろうか。実際、どのような条件であれば各自の財を移転しようとするかについて話し合った。
・本書では対象外とされているが、その財が実際どのように使われる可能性があるのかという点は無視できないと考える。

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