2010年9月7日火曜日

花崎皋平『〈共生〉への触発』

花崎皋平『〈共生〉への触発―脱植民地・多文化・倫理をめぐって』みすず書房、2002年.

「Ⅵ章 マイノリティの思想としてのフェミニズム―上野千鶴子との対話」(pp.209-280.)
※初出―『情況』1992年10、11月合併号所収。

共生について:
「花崎 理解というのは自分の持っている解釈体系にいれることなんです。…自分の解釈体系はあてはまらないんだ、適用したらまずいんだっていうことを知るところで、いったん自己を相対化する。それが『共生的な了解』の出発点だと思います。」
「上野 理解にはカタルシスがあるでしょう。共存にはカタルシスがないんです。」
「花崎 ああそうですね。」
「上野 つねにフラストレーションがある。」(pp.270-271.)

その他:
・地球を閉鎖系と考える思考
 「上野 あなたの繁栄は誰かの犠牲のもとで成り立っているという、その発想が出てこないんです。」(p.227)
・制度を閉鎖系と考える思考(p.258)
 「上野 制度論的な議論は、あるシステムを閉鎖系としてとらえたときにだけなりたつような議論ですね。私は近代主義批判というものはどれもすべて―とくに近代経済学批判がそうですけれども―システムを閉鎖系としてとらえたとたんにおきた間違いを衝いているのだと思っています。」(p.258)  
・関係的カテゴリーとしての男性/女性(p.228)
 「花崎 女性の反差別の運動は、性差なき平等をめざすものではなく、性差を差別にしない関係の表現ということになりますね。」(p.230)
 「上野 私たちは弱者である、社会的少数者であるということを認めて、弱者のままで、社会的少数者が誰からも抑圧されずに生存できる、ということが実はゴールだったんじゃないか。」(p.232)
・概念の権力性
 「上野 言説というものは、あるいは概念というものは、つくったとたんにもうすでに権力的なものですよ。フェミニズムだってそういう言説の権力―対抗権力と呼びたいですが―は行使していますから。」(p.237)
・思想は思想の問題
 「上野 思想は思想の問題として解けるんだから、ここにこういう欠点があるとか、こういう間違いがあるということはその限りできっちり言い合うことができると思うんですが。」(p.237)
・普遍主義への問い
 「上野 私はやっぱり基本的に関係的な場にとどまって考えたい。…私は前に『複合差別』という言葉をつくったりしたんですけれど、どうもうまくいかない。」(p.234)
 「上野 『人権』という概念、そういう普遍的な概念のもとに、多様な差別の問題を包括できると考えていらっしゃいますか。」(p.240)
 「花崎 女性差別と、障害者差別とか、そういうそれぞれのコンテクストがあって、それぞれのコンテクストがそれぞれのコンテクストで、対話的な関係を成立させるところでとどまるべきだということですか。」
 「上野 それ以上は私にはわかりません。」(p.259)
・「他者」の思想としてのフェミニズム
 「上野 フェミニズムは徹底的に『他者』の思想ですから、あんたにわかるわけない、わかってたまるか、ということろがあります。わかってもらえなくてもいい、ただしわからないままに私をあるがままに認めてほしい、そういう思想です。」(p.257)
 「上野 自己決定の要求には、私に必要があるときに、その必要を満たす能力のあるあなたには、私にそれを提供する義務がある、ということまで含むはずなんです。」(p.275)

コメント:
長い引用になってしまいましたが、興味深い論点がいくつも出されていたので。備忘。上野さんからの引用が多いですね…。

2010年9月1日水曜日

国籍法の改正(平成20年12月12日)

法務省HP:国籍法が改正されました
(http://www.moj.go.jp/MINJI/minji163.html)

「平成20年12月12日,国籍法が改正(平成21年1月1日施行)され,出生後に日本人に認知されていれば,父母が結婚していない場合にも届出によって日本の国籍を取得することができるようになりました。
 また,虚偽の届出をした者に対する罰則が設けられました。」

コメント:
2009年から施行された国籍法の改正内容のメモ。

【報道発表】高等学校の課程に類する課程を置く外国人学校の指定に関する基準等について(報告)

【報道発表】
・高等学校の課程に類する課程を置く外国人学校の指定に関する基準等について(報告)(平成22年8月31日)
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/22/08/1297232.htm

・高等学校等就学支援金の支給に関する検討会議(報告)〔概要〕
・高等学校の課程に類する課程を置く外国人学校の指定に関する基準等について(報告)
・関連資料

基準(概要より):
1.教育課程等
○高等専修学校に求められているレベルに加えて、3年間の修業年限と、体育・芸術等の科目を含む高度な普通教育に類する教育を施すにふさわしい授業科目の開設が必要。
○個々の具体的な教育内容については基準としない。
・既に指定されている他の外国人学校ついて、教育内容を基準としていないこと
・既に指定されている専修学校高等課程について、具体的な教育活動の内容に関する基準が定められていないこと

2.教員の資格
○高度な普通教育に類する教育を実施する資質として、教員としての職務を実施するに必要な専門的教育を受けていることが必要。

3.施設・設備
○専修学校高等課程と同様に必要な校地、校舎、設備を備えていることが必要。

4.運営及び情報提供
○法令に基づく学校の自己評価、情報提供及び公表が適正に行われていることが必要。
○就学支援金の管理その他の法令に基づく学校の運営が適正に行われていることが必要。

佐々木てる『日本の国籍制度とコリア系日本人』

佐々木てる『日本の国籍制度とコリア系日本人』明石書店、2006年.

構成:
序論 在日コリアンの国籍取得とコリア系日本人/第1章 戦後日本政府にとっての国籍制度とネーションの設定/第2章 戦後日本国籍取得者の概況/第3章 コリア系日本人への意識調査/第4章 コリア系日本人のアイデンティティに関する理念的把握/第5章 日本国籍取得者のライフストーリー/補論 近代日本における国籍制度の誕生

要旨:
著者は「民族的なルーツを大切にすることと、日本国籍を取得することを共存させていく戦略」(p.20)を念頭に、「コリア系日本人」という枠組み(用語)を提起する。それは、日本国籍を取得した在日コリアンを指す。このような枠組みが必要となるのは、「『日本人』対『在日コリアン』といった二項対立は、日本社会と在日コリアン社会の双方から排除される人を生み出すことになる」(p.22)からである。この「コリア系日本人」という用語をひとつの記号(=使用される文脈において意味づけが変わるもの)としてとらえ、それが持つ意味として以下の3点を挙げている。①「コリア系日本人」の不可視の状態、アイデンティティを回復する、②記号的なイメージから引き起こされる「コリアン」対「日本人」という二分法をさけ、双方の共生、調和を存在としてイメージさせる、③「日本人が単一民族である」というイメージを内部から変容させる(pp.23-25.)。

2010年8月30日月曜日

中川正春文部科学副大臣「攻めの文化行政」

【大臣会見】
・中川正春文部科学副大臣記者会見録(平成22年7月21日)
http://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/1296064.htm

※記者からの文化庁を中心とした(日本)文化の海外発信についての質問に対して:

副大臣)
…私自身の問題意識として、文化庁のこれまでの行政はどちらかというと守りというか、文化を保存していく、それをじっくり生かしていくというところに重きを置いた行政だったのかなという評価なんです。それを思うと、逆に攻めの文化行政というか、文化発信をして、それが観光に結びついたり、地域の産業化に結びついたりしていって、私たちの新しいライフスタイルの中にそれが拡散されていくというか、そういうような形の文化行政というのもあってしかるべきなんじゃないかと、それが欠けていたんじゃないかという思いがしまして、攻めの文化行政という思いを込めて行政を出発させていたという経緯がありました。

コメント:
「文化」の捉えかたに着目。

2010年8月27日金曜日

コリアNGOセンター『News Letter』

※『解放教育』<特集=多文化教育のいま> 2008年12月
榎井縁「『多文化教育のいま』を考えるにあたって」(pp.7-23.)から芋づる。

●8/9号(2006年8月25日発刊)
<特集=多民族多文化共生と日本>
「在日外国人住民も、地域社会の構成員に!
 政府の多文化共生施策の提言を総務省がまとめる」(pp.24-27.)

●17号(2008年7月25日発刊)
<特集=現場から構想する多文化共生>
「座談会 市民・NPOの対抗軸は何か―『人権』・『地方分権』・『アジア的視野』がカギ」(pp.6-17.)
(コーディネーター:宋悟/金光敏、田村太郎、戴エイカ)

●19号(2009年2月15日発刊)
<特集=多民族共生教育フォーラム2008大阪>

コメント:
・NGOからみた総務省報告書の評価(8/9号)。
・座談会(17号)とフォーラム(19号)でも総務省報告書が話題に上っており、NPOの立場から研究会に参加した田村さん、元総務省自治行政局国際室長で研究会に関わった山崎さんの発言が興味深い。
・「戴 『多文化共生』という言説を吸収している政府側の人たちの認識の中に、旧植民地出身者や『日本国民』の民族的・文化的背景の多様性に対する視点もなく、かつ『戦略性』もないことは逆に怖いことではないかと思います。潜在的な思考があるように思えます。それが広く共有されているとしたら、意図的ではないがゆえに把握しにくく、批判したり対処したりするのが難しい。」(17号、p.12)
・政策の戦略性のなさ、意図的ではないがゆえの批判のしにくさ、権力が可視化されないことの問題性を指摘している点が興味深い。政策立案のプロセス、あるいは組織上の問題点。

2010年8月19日木曜日

『解放教育』<特集=シティズンシップ教育>

●2010年9月
<特集=シティズンシップ教育は何を提起するのか
    ~シティズンシップ教育にかかわる資料と解説>

民主主義的シティズンシップ教育と人権教育に関する欧州評議会憲章
二一世紀をめざすシティズンシップ教育―ユネスコ
児童の権利に関する条約(抜粋)
シティズンシップ教育と経済社会での人々の活躍についての研究会報告書(抜粋)―経済産業省


[8/19―修正]

『解放教育』<特集=多文化教育のいま>

●2008年12月
<特集=多文化教育のいま>

榎井縁「『多文化教育のいま』を考えるにあたって」(pp.7-23.)

総務省の「多文化共生推進プログラム」について、「第1回目の研究会が開かれる直前に対象者が限定されたという経緯がある。すなわち、先住民族、旧植民地出身者、オーバースティの問題がその対象から外され、日本語でコミュニケーションできない人たちに共生の対象が限られた」(p.7)。ここでは、どのような経緯でそうなったのかは述べられていない。しかし、「教育の分野で今この『多文化共生』の波に乗ることは、積み上げてきたものを絡みとられてしまうような危険性を感じている。〔それは〕歴史も人権も抜きにして、沢山いるのですから一緒にやりましょうという、マジョリティ側を問わない発想」(p.8)があるからだという。「『多文化共生教育』にしても、旧植民地出身者の教育権を保障する運動をしてきたものたちが、資料で確認される限り1991年から今後増えるであろう外国人の子どもたちを想定して戦略として使用するようになったことば」なのである。
また多文化教育のアプローチとして、①マジョリティ側の認識変革に重きを置いたもの(life style approach)と、反差別の視点にたったマイノリティ側の権利保障を推進するもの(life chance approach)を挙げた上で、ニューカマーの教育問題を権利保障の問題といち早く捉えたのは、在日コリアンの教育運動にかかわってきた教育実践者や研究者たちであったという(pp.9-10.)。しかし、「教育を受ける権利の主体として外国人の子どもが認識されなければそれは放置されていても容認されうる」(p.12)。
その一方で、日本人の子どもたちへのアプローチは、「足元の文化的多様性の認識や日本の学校文化の変容をめざす、多文化教育」とは程遠い方向に向かっているようすが伺えるという(p.16)。

コメント:
・現在の日本の多文化共生政策に対する教育分野からの視点。コリアNGOセンターから発行されている雑誌でも座談会が組まれたという(雑誌発注―8/19)。
・マジョリティ/マイノリティという枠、日本人/外国人という枠で論じてしまうことの限界。その中の多様性をどのように認識するのか。
・同等の権利を保障することと、差異を承認すること(C. テイラー)の重要性。その際、承認される「差異」とは何か。誰がその基準を決定しているのか。それはどのような根拠によって正当化されているのか。

[8/19―修正]
[8/27―著者、題目追加]

2010年8月17日火曜日

カール・セーガン『人はなぜエセ科学に騙されるのか』

カール・セーガン(Carl Sagan)/青木薫(訳)『人はなぜエセ科学に騙されるのか〈上・下〉』(新潮文庫)、新潮社、2000年.

※実家に帰った際に兄からすすめられた本。久々の文庫本。
※『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』新潮社、1997年.
 『悪霊にさいなまれる世界―「知の闇を照らす灯」としての科学』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)、早川書房、2009年.

読んだ章:
〈上〉はじめに/第1章 いちばん貴重なもの/第2章 科学と希望
〈下〉第25章 真の愛国者は問いを発する

コメント:
「科学とは何か」ということを明快に述べた本。著者は天文学(理系)の研究者なので、これを社会科学におきかえるとどのような語り方ができるのだろうか、と思った。そういえば、少し前に文科省でも検討が行われていたことを思い出す。平成21年ということは…2009年、昨年だ!時間のあるときに残りの章も読もう。

文科省HP
人文学及び社会科学の振興について(報告)-「対話」と「実証」を通じた文明基盤形成への道―(http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/21/02/__icsFiles/afieldfile/2009/02/09/1236243_2.pdf)

[8/18―修正]

姜尚中、テッサ・モーリス-スズキ『デモクラシーの冒険』

姜尚中、テッサ・モーリス-スズキ『デモクラシーの冒険』(集英社新書)、集英社、2004年.

要旨:
「グローバルな権力が国民国家の範囲を超えている」(p.231)中で、どのようにデモクラシーを再興するのか。その一方で「民主化と非民主化の同時拡大」(p.174)をどのように考えていくのか。「消費者」としてではなく「デモス」としての行動のすすめ(あとがき)。

・ジョルジュ・アガンベンも「住民アプローチ」を提起している(pp.175-176.)ようである。